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peaceful・soup

家族コンプレックス


年の瀬、帰省して家族とのんびり過ごすとか、
そういう人が多い時期だ。


普段の生活の中では忘れていたけど、
私は身近な血の繋がる人間がすごく少ない。

少ない上に、ちまたに見るような
「家族とはこういうもの」というイメージとはだいぶ質を異にする。


このご時世、カタオヤだとかなんてことは特に珍しくなく
一人っ子だって多くいる。

実に様々な家庭事情が、家庭の数だけあるだろう。

それに、私にとってはその形が「当たり前」だから、
特段自身の家族の形に関して意識することもない。

(同情されがちな形状ではあるが)



でも、世の中が、
「家庭のぬくもり」のにおいでいっぱいになると、

そのにおいを、当事者として内からお腹いっぱい吸い込むことができない私は、
とたんに自分だけ取り残され 途方もなく独りであるように感じるのだ。

と同時に、
「両親がいて、どちらも真面目に働き、信用と、安定した収入がある。
時にいざこざもあれど いつも安心して帰る場所」
というような、
「家族・家庭、かくあるべし」的な、世間なのか誰なのか分からないが、
そういうどこからともなくわいて出る
善良な家庭のイメージからは乖離している自分と自分の抱える家庭事情が、
人として絶対的に欠落、欠陥しているように思えて
消えてしまいたくなる。



マジョリティーで、安心で、豊かで健全な社会の人間。
というような、虚像とわかっていながらも
自らが持たないからこそ切望するその姿に、
絶望を見せつけられ、打ちのめされる。


誰も恨んではいない。

ただ、社会に根付く家庭行事を、
ままごとでしかできないということが、
ものすごく、悲しい。


自分で気づかないくらい日頃は当たり前になっているけれど、
こういう時期には心の深い部分がほじくり返されて、
自分でもこんなに強烈なコンプレックスを抱えていたことにおどろく。

これも、リハビリと思って言葉にしてみた。

Pharrell Williamsの哲学性。

私がファレルウィリアムスを知ったのは、高校生くらいの時。

テリヤキボーイズとの共演で知った。

まだその頃は、フツーの兄ちゃんみたいで、特に心に引っ掛からなかったのだが。



2、3年前の『Happy』を聴いて、
私のなかで 彼の立ち位置が大きく変わり。


そして今日久しぶりにYouTubeでまた彼の新しい曲を聴いた。


『Freedom』という曲。


ビデオが始まってすぐ、ぼろぼろ泣き出し、
身体の芯が震えて熱くなるような感覚になった。



www.youtube.com



私が学生時代に見た彼のイメージからは想像すらしなかった、
むしろその頃は、軽薄なイメージしかなかったが、

パワフルで、崇高なポップスだった。


もちろん、音楽として、プロモーションとして、
「ファレルウィリアムス」という、いち商品を仕立てているのは一人ではないことは承知しているが、

それを差し置いても、この「ファレルウィリアムス」の近年の表現、メッセージには本当にハッとさせられる。

ハッとするというより、グッとくる。だろうか。





『Happy 』では、
24時間、様々な人たちの踊る姿と街を映したビデオと、
軽いタッチながらもゴスペル風味の、絶対的な幸せ感いっぱいの音楽で、
そのタイトルを体現した、ある種の悟りを感じるようなすばらしいものだったと思う。
あの感じはほかの英単語で表すなら「rapture」かな。



そして、今回の『Freedom』は、
より核心的な(科学的かつ詩的と言うべきか?)歌詞と、
迫りくる、湧き上がるようなメロディとで、重厚な世界観を持つ。

ミュージックビデオは、ありがちといったらありがちな演出なのかもしれないが、
音楽と合わさったときに、強く胸を打つ。

最近の彼の音楽の好きなところは、「多様性」を受け入れ真正面からとらえているところ。
スピリチュアル信仰もマテリアル信仰をもすべてを飲み込んだような深み。





古くからの教え、堅苦しい学問。
色んな形、色んな場所で「真理」は今までも唱えられてきた。


しかし、このキャッチーさで、
これだけのメッセージを込められるなんて。

すげーぜ、ファレル。


イエスの次の、
新しいスーパースターかもしれないね。



つーか、彼は今43歳なのか。これまたすげーぜ。



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穏やかに心が死んでいく


すぐ寂しくなる、不安になる、悲しくなる、傷つく、無気力になる。
情緒不安定もいいところ。

そんな状態に、一番近くにいる人は振り回されてしまうかもしれない。

ぜんぜん、「しっかり」「ちゃんと」なんて生きられない。

皆、毎日をがんばって、ちゃんと生きていてすごい。
夢があってすごい。自制心があってすごい。今の私にはとても眩しい。

こんなダメな私は誰にも受け入れてもらえない。
誰にも愛されない。


そう感じているみたい。

泣けちゃうわ。

そんなことないよ、と言ってくれる人が沢山いることも知っている。



でも今はやっぱり、生きる気力がしない。

言わなきゃ分かんないです。

昨日は、職場のスタッフ一同で飲み会に行って参りました。


お仕事の真面目なお話から、日常の他愛ないお話まで、皆でわいわいと楽しく過ごしました。



そこでひとつ大きな人生の教訓を改めて得たので、そのお話をしたいと思います。




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居酒屋さんに行くと、
お手洗いなどに「お客様ノート」みたいなものが置いてあるところ、ありますよね?

お客さんが自由にご意見・ご感想的なものを書き込めるノートです。


で、そのお店にも置いてあったので、
楽しく過ごしてます~ みたいなことを書こうと思って、
ハラリと開けてみたのですよ。


そうしたら、
「美味しかったです~❤」
とか
「楽しかった~また来ます~❤」
「ビール❤おっぱい~❤」
みたいな思い思いのコメントがあって、ほっこりしていたんですが、

ひとつ長めの文章が目に入ってきました。

そこにはこんなことが書いてありました。



「店内が寒すぎる。
友達と『さむいね~』と言い合ったり、上着を羽織ったりしていたのに、それに気付いてくれなかったのが残念です…
空いたお皿に気付くなら、そこにも気付いてほしかった…
寒かったので飲み物も進みませんでした」


概ね、こんな内容でした。

はい、冷えすぎな店内、あるあるですね。




でも、私はこのコメントを見たとき、すごくムカつきました。



は?頭悪いの?なんなの?しぬの?と。

こいつはぜってーーモテないわ。そんなんだから孤独で寒すぎる人生なんだわ。と。




何で 友達に寒いと伝えられるのに、
飲み物食べ物のオーダーは店員さんに伝えられるのに、

「寒いです。空調を調節してほしいです。」

とは店員さんに伝えられないわけ?え??


そんで最後は気付いてくれなかった店員さんのせい。
寒い店内で震えながら寒い話に花すら咲かせられなかった悲劇のヒロインのわたくしヅラ。


寒いので対応してほしい。と伝えた上で、何も対応されなかったりしたら、その時にはじめて文句言えよ。




「察してくれの構ってちゃんの甘ったれ」


察してほしい、気を回してほしいとのたまうやつほど、

そもそも、他人と自分には全く別の世界が見えていて、感じているのだということに気が回らない。

赤ちゃんと変わらないのですね。自立してない。



もちろん、寒そうにする素振りを見て、
「お寒いですか?」と先んじて対応してくれる店員さんもいるよ。私とか。



でもね、
いつだって勝手に周りが自分の状態を細やかに把握してくれて、いつだって勝手に快適な環境が整えられる。
というのは、王族貴族、そういった特殊な立場の人くらいだし、
そういう人達だって、何かしらを周りに伝えることは絶対にしている。



「伝える」という努力すらしないで、
周りに文句を言うのは、私にとってはとても傲慢なことだと思います。

でも、気付かずに色んな形でやってしまうことでもあると思います。



特に日本は、「察する」文化が発達している。


上手に察し、察されたときはお互いに何も問題は起きないかもしれませんが、

それが当たり前になって、


「何で察してくれないの!何で分からないの!こんなの分かって当たり前でしょ!」


となったときに、不幸が生まれるのだと思います。





細かいことを改めて伝え合わなくても、何となくお互いのことが分かる。


そんな他人との「ツーカー」の状態は心地よいですし、素敵なことですが、

その状態は、初めから誰とでも成りうることではなくて、
たくさんの経験などを共有し、その度に対話を繰り返すという 蓄積の上にしか「ツーカー」は成り立たないと思います。



そして、そんな「あうんの呼吸」「ツーカー」の仲ですら、すれ違う瞬間がある。
その度に、言葉にして伝え合う。

むしろその努力を怠らなかったからこそ、言葉にせずとも分かり合える瞬間がある。



結論。

【言わなきゃ分かんないです】






これは、職場の六月のスローガンにもなりました。

細やかに伝え合うこと。




今のところ、人間はテレパシー使えないので、言葉にして伝え合うことはとってもとっても大切だと思います。



で、そもそも論として、

「伝える」というのは、

自分の状態、気持ち、意志、そういうものを表に出す。
ということで、そのためにはまず、

★様々な「自覚」というものが不可欠であること。

そして

★相手を力づくでコントロールしようとすることとは違うということ。



もちろん、相手に何かを望んだり意図して伝えることはあるでしょうが、
それに対してどんな反応をするかは、相手の自由である。
それは、逆もしかりである。
ということも覚えておくと、きっと気が楽になるでしょう。





以上、超基本的で超重要な教訓でした。

憧れの対象の選別


お金持ちに憧れるか

と聞かれたら、迷わずYES。


ただ、どんなお金持ちも素敵で憧れるか

と聞かれたら、NO。



私の世界には
素敵なお金持ちと素敵じゃないお金持ちがいる。


私より資産があるという一点だけは、
どんな人でも間違いなく憧れるしリスペクトするが、


どうせ憧れ目指そうとするなら、
私にとって全面的に素敵なお金持ちがいい。



んで、その時に憧れる先が、
自分のセンスが問われるとこよね~~

と思っていて。




んで、今んとこ、
全幅の信頼で憧れられるレベルの人間には出会えてない。

出会えてないというか、いても、情報が少なすぎる。





なんというか、私が最高に大好きでときめくようなおしゃれなお金持ちは、
もう、ハナっから今の自分とぜんっぜん違う世界に生きている。
交わらない。



だから 基本的に、今の私が簡単に目にすることができる
程度のお金持ちは、自動的に私の憧れの対象ではないのですよね。


お金がいっぱいあっていいなぁ~。
いろんな事が出来るんだろうなぁ~。

程度の関心。ときめき度100のうち40くらい。

だって、お金をたくさん持ってること以外の部分も、
しびれるほどカッコいいって人が少ないんだもん。





ここまで書いて、


ああ、何て身の程知らずで罰当たりで失礼な言いぐさなのだろう。
と我ながらビビっているわけですけどね。




でも、資産の多さより、まず「かっこいい」ことが
何よりも大事な、かっこつけの自分としては、


自分の満足のためには、
「カッコよさ」は必要十分条件で、
「資産」は十分条件というかんじなのですよね。



ダサいままお金持っても、ダサいお金持ちになるだけなので、

カッコよさはお金以上にストイックに求めていきたいのですよね。


で、この「かっこいいとはこういうことさ。」
という、どこかの豚さん的なことを見せてくれる人が
身近にいてくれたらいいなーーーなんて思っています。

(皆それぞれかっこいいところがあるけど、
もっと隙のないカッコよさを体現する人を見たい)



でもって、私の考える「かっこいい」「おしゃれ」
ってのはこいうこと。

という、いわゆる「美学」のがあるのですが、

その件に関してはまだ端的に表すことができずに
モヤモヤしています。


それは一般的に使われる「美意識」とはベクトルがちょっと違う気がしますが、

私の中で絶対的な「美」とされるものがあり、
それを追求していくパッションは並々ならぬものがあると思うので、
他人から認識されるかどうかは別として、
美意識は猛烈に高いという自負があります。






日を改めて、言語化により明確化したいと思います。





明晰夢

突然ですが、皆さん。

明晰夢」って、見たことありますか?




私は、謎めいたものがとにもかくにも大好きで、なんとしても解き明かしたいという情熱がどこからともなく沸いてくるのですが(地獄の果てまでついていく さそり座の女です)、

「夢」についても、そのうちの1つでした。



そして「明晰夢」というのは、夢の中で、

「これは夢である」

と自覚している状態のことで。




当時は「明晰夢」という言葉も知らなかったのですが、小学校くらいの頃に、

夢の中で、夢って気付いたら、あんなことやこんなことが好きにできるんじゃね!?!?(☆∀☆)

と、ふと閃き、夢の中で夢と気付けるように自分なりに策をこうじたら、


ある日突然、見ることができました。


夢の途中で、「あ、待てよ?これ夢か?」
となる感じで、最初から自覚することは出来ないのですが。


(ていうか、夢の始まりって何処なんだ。)





そもそも、「明晰夢」のことを閃いたのは、
たまに見る楽しい夢を、行き当たりばったりではなく
自分で意図して作れたらちょーー面白そう。と思ったからで。



夢で空を飛ぶのが好きだったんですよ。


で、空を飛ぶのは現実ではできないから、夢で思う存分やろうと。



そして面白いことに、
実際に夢と自覚した時に空を飛ぼうとすると、少しはからだが浮くんですが、
「思い通り!」
ってほどは自由に動けなくて。


けっこう気合い入れないとからだが浮いていかないんですよ。

あと私の場合、走るのが上手くできないことがあります。やたらとろい。


スイスイ飛んだり走ったり出来ることもあるんですけどね。


なので、ここで、
夢と自覚しても、夢を自在にコントロールするには、テクニックや鍛練が必要だ!
という風に思いました。




そしてまた別の日、何かから逃げている夢を見ていた時でした。
確か私は正義の味方みたいな設定で、ショッカーみたいなのに追われてたのかな?


で、建物の中にいたのですが、追い詰められて、窓際だかバルコニーだかに立っていたとき、
あ、これ夢かも。と思うのです。ただ確信はしてません。

そして、
夢ならこの窓から降りて空飛んで逃げられる!でも夢じゃなかったら死ぬ…
と葛藤します。

そしてさらにふと思います。
これが現実だったとしたら、「空を飛ぶ」という発想すらわかないはずだからこれは夢だ!と。

でも窓から下を覗くと、リアルだし、本当は現実だったらどうしようと思いつつ、勇気を振り絞って窓からダイブ!

したら、無事に空を飛んで逃げおおせたということがありました。



夢かも?とは思っても、夢の中ではすべてをリアルに感じることは、どんな時も変わりないことを、改めて知りました。








そんな中ある時、すごい怖い夢を見たんですよ。
ゾンビとか出てくるようなホラー系かな?


怖すぎて、もうやだーーーーー!!!!ってなったんですが、
その時に、ふと夢と自覚しまして。

自覚しても、怖いストーリーは目の前で続行してるわけですよ。

だから、
もう夢から覚めちゃえ!
って、目をぎゅっとつぶって、開けると、


あ!怖い夢終わった!私起きたんだ!

と思って安心したら、違うストーリーの夢に切り替わっただけで、まだ夢の中であるのに気付きます。



で、一瞬怖くないストーリーの夢っぽいのですが、何故かまた怖い方向に行っているので、

今度こそ起きる!!

と思って、もう一度目をぎゅっとつぶって、かなり気合いを入れて瞼を開けようとして、

パッ!という瞬間。


汗だくの自分が暗い部屋で天井見てました。



あーー、今度こそ目が覚めた。夢でよかった。

と安心して、少ししてからまた、眠りについたということがありました。


新しいテクニックを身につけた瞬間でもありましたね。



その後もたまに明晰夢を見ては、地味に楽しんでいました。







で、面白いのが、夢と自覚しても、コントロール出来るのは自分の行動だけで、

目の前の映像や人の反応は、予測不能なんですよ。

やろうと思えば、そこまでコントロール出来るのかもしれないけど。


あ、今思い出したけど、目の前の誰かの反応を、念じてコントロールするみたいなことは出来たかな?


例えば、目の前の人にどうしても同意してほしい場面だとしたら、
(同意する同意する同意する同意する…)
と思いながら、相手が同意している所をイメージすると、
大抵その通りになります。

上手くいかないときもあります。


この念じるテクは、夢と自覚していないときにも、自然とやっていたことでした。


この「思い通り感」が気持ちよかったです。






そんなこんなで、夢の楽しみ方を少しずつ開拓していった私ですが、

これって、現実でも変わらないのではと思ったんですよ。




正直、夢と現実の違いってさほどないと思います。



今「現実」と呼ばれているものは、たまたまストーリーの継続時間が長いだけで。


「夢」のなかで夢と自覚する人は、多くないと思います。
だって、夢を見ているときは それがその人にとってリアリティ溢れる、「現実」そのものなのだから。

目が覚めたときに、「あ、夢だったのか」ってなることがほとんどでしょう。



どんなに怖くても、どんなに悲しくても、どんなにエロくても、どんなに楽しくても、
どんなに、夢で壮絶な体験をしたとしても。


夢から覚めたら、すべて終わりです。
あっけないもんです。

でも、面白い。



そういうことだと、思います。

解脱 Phase Ⅰ


かいせつ、じゃないです。げだつ、です。


皆さん、こんにちは。




最近、人生に深刻にならなくなった私です。

あ、ちょっと嘘つきました。
深刻になる瞬間もあります。


ただ、この人生って、魂が選んでいる夢であり遊びであるという感覚がふと腑に落ちまして。


快・不快を全部ふくめた、様々な「感情」を味わうための人間の時間なんだなと。
(無限の時空目線で)


そんな感覚があると、どんなに

「寂しくてしぬ…」とか、
「不安でつぶれる…」とか、
「怒りでくるう」とか

いうような状態でも、

(あ、今 激しく不快な感情を感じてる。

これは魂からしたら貴重な体験だから喜んでるぞ。フヒヒ)

と思えるくらいまでの、変態になりました。


これで不快な感情が消えるわけではないですが、
気づくと、ニヤニヤするくらいにはなれました。








皆、人生を思い通りにしたくて頑張って生きてるじゃないですか。

夢とか希望とか追いかけて。

で、何か大小様々な望みが叶うと、嬉しい。喜ぶ。


で、夢とか希望って、結局突き詰めるとすべて

「楽しい」「嬉しい」「安心」「気持ちいい 」

などに繋がることで、その人にとっての【快】の感覚を求めて生きてるってことですよね。



たぶん誰も、

「不安」「悲しい」「ムカツク」「寂しい」

とかいう【不快】な感覚を進んで感じに行こうとはしないはずです。

なるべくなら、【不快】にならずに生きたいのが人間ですから。





ではここで、お聞きします。



もしあなたが、すべてを自分の思い通りにできるとしたら、今何をしますか?なんの制限もありません。

そして、未来で何が起きるか、すべてわかるとしたら。


悩みなんか無くなりそうですよね?

すべて思い通りで、未来もわかるというか、自在に決められるのですから、不安もありません。



なんて素晴らしいのでしょう!神のようです!
一切の【不快】から解放され、
【快楽】のみに心置きなくひたれます!

死ぬまでずーーっと幸せです!




…ん、待てよ?本当にそうでしょうか?

「こんなものが欲しい。」
「こんなことしたい。」
「こんな人と過ごしたい。」
「こんな風になりたい。」
「こんな所に居たい。」

と思ったこと、これが瞬間すべて思い通りになって、
またさらに

「こんなものが欲しい。」
「こんなことがしたい。」……

と思ったら、それもすべて思い通りになって……



ずーーっと、何のつまずきも、滞りも、不安もなく、思えば思った通りになる快だけの状態が続いたら、


さすがに、どこかで飽きてきません?
だって、全部自分の思い通りだからこそ、何が起きるかも全部分かるんですよ?



意図的に、「予測不能なスリル要素」とか入れたくなってきませんか?







あ、気づきましたか?


人間は常に【快】を求めながらも、
【常に快である】状態は、【快ではない】のですよ。


矛盾してますよね。



でも、ちょっと考えればわかるはずです。

世の中、良いことしか起きなかったら、それが当たり前なので、「良いも悪いも無い」状態になるんですよ。

お金持ちであることも、モテることも、特別なことではなくなる。
不快はないかもしれませんが、同時に快な状態に対する感動もないわけです。


ピンと来ないですか?



このことを考えるときに超絶ミソなのは、我々は今、【対比のなかでしか、ものごとを認識できない世界にいる】ということ。


「有」と「無」の関係です。

「無」があるから、「有」が認識されるわけです。


なぞなぞみたいですね。




でも、この「無」の必要性を感じると、

きっと世界のいろんなものにスペースを感じるようになる。


言い方をかえると、 余裕・余白のある生き方に繋がるのではと

思っています。



快楽を追求しながらも、
私の解脱は進んでいきそうです。(*^-^*)

最後があるのはお約束。

近ごろ、おうちで過ごす時間が増えたので、自ずと猫ちゃんと過ごす時間も増えました。


そうそう、うちには二匹の猫ちゃんがいます。


ある出来事がきっかけで、もともと母が飼っていたのを、去年の冬、私が引き取りました。


もともと拾い猫ちゃんなので、正確な年齢はわかりませんが、
4歳前後のオスのラブくんと、10歳以上のメスのノブちゃんの二匹です。




うちに来てから数ヶ月、私がバイトで忙しくし過ぎていたのもあり、ふれ合う時間はごく僅かでした。


でも、仕事を最低限と思われる程度に減らしてから、自由な時間が増えたので、
その時は嬉しくてたくさん撫でたり、だっこしたり、ブラッシングしたり、と、触れあえる喜びを感じ、スキンシップを楽しんでいました。


だんだんなついてきてくれるのが分かり、それもまた嬉しかった。



でも、私の中でその時間がだんだんと、「慣れて」「当たり前」のものになっていってました。


最近は、にゃあと呼ばれても すり寄られても、あまり反応しなくなっていたし、場合によっては鬱陶しくさえ感じていたこともあった。



そんな中、ふとした瞬間に、ノブちゃんの体力の衰えを感じるようになりました。

ジャンプなどの動きが鈍ったり、ちょっとした時の力の無さだったり。



そんな姿を見たら、確実に寿命が近付いていることを気付かされました。


ふと、こんな風に彼女との触れ合いを楽しめるのはあとどれくらいなんだろう。とか、
死期が近づいて動けなくなってしまっても、ずーっと隣で見ていてあげたいな。
とか考えたら、胸が苦しくなってしまって。


今こうして触れあえることは、ぜんぜん、「当たり前」なんかじゃないなぁ。

今というものの尊さを、見失っていたなぁと気付いて。




そして、これはノブちゃんに限った話ではなくて。

生きているものはすべて、一瞬、一秒ずつ、確実に死に向かっている。
どんな形ある命も、最後は形がなくなってしまう。


そして、その「死」という絶対的な離別は、いつどの瞬間に、誰の身に起きるとも分からないもので。


確率論的に言えば、私はまだ二十代で、死には遠い存在にも見える。

でも、事故や、災害や、予想だにしない出来事で、明日には生きていないかもしれない。

そしてそれは私の目の前にいる、私の大切な人も同じことで。


「死」の可能性は、いつでも誰にも等しく存在するのだ。




こんな言い方をすると悲観的に映るかもしれないけれど、これは温度のない、ただの事実なのです。


そんなことを改めて感じ入って、
やはり私は、死に際に後悔することだけは嫌なので。

目の前の大切な人や、ものへ、出し惜しみせずに、気持ちを伝えたいと思いました。



誰かと別れるときは、それが最後の別れかもしれないと思いながら、さよならという。

また会えたら、また会えて良かったと、心底思う。



人によっては、こういうのは暑苦しいのかもしれないけど、
「死」を意識したら、今何かを出し惜しみするような気持ちには、私はなれない。


そんな風に、思いました。




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