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peaceful・soup

モヤモヤの整理。


「計画的に生きる」ってなんだろう。


苦労が少ないように、先読みして生きる。
困らないように、不測の事態に備えておく。

こんなイメージ。



うんうん、確かに、生きるためには大事そうなことだ。
私も「ちゃんとして」「計画的に」生きる、「人に迷惑をかけない」「立派な」人間になろうとがんばってきた。




でも、そもそも人生って、何が起きるか分からなくて、起きる全てのことは本来不測の事態じゃん。
それを、人間様のちっぽけな脳みそで完璧に予測してリスクヘッジして…なんてコントロールできるようなもんじゃなし。

たまたま、予想してた通りになることはあっても。


あ、このまま待っとけば信号が青に変わって渡れるな。
…あ、変わった。渡ろう。

みたいな。



でも、その当たり前に感じるその事すらも、もしかしたら車が信号機に急に突っ込んで信号が変わらないかもしれないし、青になって道を渡ろうとしたら人に道を尋ねられるかもしれないし。

本当は一瞬先の事すら何が起きるか分からない。
何が起きてもおかしくない。


その当たり前の事実を忘れて生きる人間は傲慢だ。



人生の不常性を見つめて、絶望するのではなく、受け入れなければ、出来事に振り回されて消耗することの繰り返しだろう。
力強く人生を生きることと、不常性を受け入れることとはイコールだ。


そういうことに最近思い至ったので、今まで自分が握りしめていた、「計画的で理性的で立派な人生」というものを手放した。
そんな人生は幻想だと思った。


人間は身体をもった動物です。
当たり前に 「欲」がある。


無欲になろうと悟りの道に入ることも、理性で欲をコントロールしようとすることも、以前は私も頑張っていたことがあったけど、つくづくナンセンスなことだと思う。
いのちへの冒涜とさえ思う。



そうして抑圧されたピュアな欲求は、ねじれて、こじれて、人生を辛く苦しいものに変えてしまう。



見つめるのが恐い、認めるのが恐い、その物事の中にこそ真実があり、その真実を正面きって見つめ受け入れた先にこそ、恐怖や萎縮から解放された人生が開かれるのだと思う。


思うがままに生きても、結局人間は優しくて素晴らしい生き物なのだし。

映画インターステラーについて その2

総論みたいなものは言い切ってすっきりしたので、物語の部分以外の感想文を。




とにかく、音楽がとてもよかった。

特にメインテーマが印象的で、ある種の悲壮感がある。
どのメロディも重厚でドラマチックだが、本当に効果的なところで流されるので、より物語に引き込まれる。

演技やストーリーの薄さを過剰な音楽で誤魔化すような安っぽい演出、などということはなかった。
それはもちろん、役者さんや脚本が優れており土台がしっかりしているからこその相乗効果であろう。


役者さんといえば、主人公クーパー役のマシューマコノヒー。
初見のときは、変にギラギラした感じに映り、ちょっとラリっているみたいで怖く感じた…(笑)。
途中からその違和感は消えるのだが、やたら目が据わっているというか。
独特の強さも感じるが、スタンガンか何かで気絶させられ目覚めた後の尋問シーンなんかは、完全にきまってました。

少女時代のマーフ役の女の子は、気が強く聡明ながらも幼い雰囲気が残っていて、可愛かった(*^_^*)
あんなにキュートなおりこうさんなら、そりゃクーパーも親バカにもなるし地球ごと救いたくなっちゃうだろうな、といったところ。

しかし、お兄さん(名前すら思い出せない)に関しては、親子の絆や愛情が描かれるシーンもあるけど、あまりにも父クーパーと妹マーフの絆の方がフィーチャーされているから、同じ親の子であるのに少し可愛そうに思ってしまった…(笑)

まぁ、彼にしかない、物語を担う大事ないち装置としての役割があるのだな。
そして、父親と息子、父親と娘のそれぞれの絆の形があって、その描かれ方に、典型とも言えるような普遍的なものを感じた。


ブランド博士役のアンハサウェイは、プリプリの可愛らしいイメージが強かったので、ベリーショートで知的な役というのは はじめ?と思ったが、映画を見たら、納得であった。
理論の先に、「愛」を直感した女性科学者。その役にぴったりの強さと知性と若さを感じた。


それからマン博士。彼のファーストネームは劇中では出てこないが、Hughと言うらしい。Hugh Mannである。人類の種の保存に盲進した彼の名がヒューマンというのが何とも…。
カメオ出演扱いのマットデイモンも、名の始めと最後を合わせてもマン、だなぁとオヤジギャグレベルのこともただの偶然ではあるまいと勘ぐってしまうのである。

残念ではあったが、ドイル役の黒人さんも、少ないセリフから温厚さが伝わる雰囲気で、好きになった。

総じて、それぞれの役者さんの演技が良く、良い味を出していた。

人間のキャラクターではないが、スーパーAI?のTARSやCASEの魅力も素晴らしかった。

2001年宇宙の旅の、モノリスのようでもありHALのようでもあり。しかし、海軍仕込み風の陽気なジョークを言ったり、トランスフォームして独特な鋭敏か動きを見せたりと、一見無機質だが、非常にハートウォーミングなやつである。
そしてこの映画の微少で希少な笑いの部分を、人ではなくこのロボットであるTARSが一手に担っていたと言っても過言ではない。

なので、映画を見終えた頃には、うっかり一番好きなキャラクターになっちゃったりする。
そしてきっと、クールなCASE派かお茶目なTARS派か別れるところであろう。
私はもちろん、ベタだがTARS萌えである。
TARSにお姫さま抱っこされたい。

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今までのクリストファーノーラン監督の映画は、嫌いではないが、堅く重いイメージがある。
ダークナイトなんかは正直、私には暗すぎた。

しかしその堅さが今回、作品のテーマや舞台と、非常に絶妙なハーモーニーを奏でたと思う。
そして作品全体の重さに比例して見終えた時の、超特大のカタルシスを生む。


何度見てもきっと気づくことがたくさんあるだろう。

またその時には追記していこうと思う。

映画インターステラーを観て思うこと

インターステラーを観た。


以前「個人的に最も面白い映画」とひとに紹介され、どんな映画かよく分からないまま観た。
が、その時も、ポスターやあらすじ紹介から予想していたものとはもう次元が違った、すごい!映画で、とにかく衝撃を受けた。


すごい!ポイントは数多あり、なかなかすべてを一度に語るのは難しい。
しかしそんな「インターステラー」の魅力や難しい理論の解説などを、分かりやすくかつ濃密に記した素晴らしい記事はすでにたくさんある。


ただ、たとい重複があったとしても改めて自分自身のなかの膨大な思考や感覚の旅の軌跡をアウトプットしたい、と思ったので、自分が飽きるまで、つらつらと大小感じたこと気ままに書いていこうと思う。





まず、この映画はSF映画に分類されるが、そのSF具合が、かなりかなり、ハードコアである。

もちろん大前提が娯楽としての映画なので、純粋な物理学のシミュレーション映像というのとは性格も目的も異なるが、基本的に、かなりシビアな物理学的な計算や理論が通底している上での映像とストーリーだということ。





私は知的好奇心の行き着く先、宇宙論が大好きなので(数字とか計算とかは超・苦手だが)、この辺のコリにコリまくった演出に、単純にしびれた。

今まで本などであくまで理論的に、二次元的に表現されていた事象が、映画というかたちで、まさに疑似体験の域で感じられることへの興奮。


ワームホール」や「ブラックホール」、「事象の地平線」などなど、在ると知っていても地球での日常生活のなかではうまく想像すらできない、摩訶不思議なものを、この超ゴリゴリのSF映画は、リアリティをもった映像として、目の前に見せてくれる。すごい!

そういうのが好きな人は、本当に、ドラマなどはすっ飛ばして映像だけでもじゅうぶんに楽しめるはずである。


しかし!それでは正直、この映画を観たことにはならない。というか、宇宙に惹かれ、抗えない探究心があればあるほど、これはただのSFという枠に収まるものではない、と気づくのである。




この映画を観た人が抱くであろう物語の印象は、おそらく多くの人が、「父と娘や人と人の絆・愛の物語」「人類の果てなき旅」「ハードコアなSF的描写」などなど、こんな感じであろうと思うが、
人によって人間ドラマと捉えるか、SFとしての完成度を楽しむか、どちらかに片寄って別れるところだろう。
文系的か、理系的か、というところである。


前者は宇宙論などにはあまり興味がないというか、だからこそ知識もなく、途中からワケわからん状態になりそうだ。結果、「父クーパーと娘マーフの愛の物語」"だけ"しかテーマを感じられない。

後者はSF映画を楽しむ知識はあるが、作中の「愛」とかそういうシーンには胡散臭さを感じ、従来の理論理屈で説明できる描写にしか萌えることができない。



私は、もちろんそれぞれがこの作品の大きな魅力であると思う。間違いない。
しかし、それらは一見異なる性質であり、それぞれが独立した別のテーマであるようだが、本当は、全くどこにも区切りや線引きのない、全く同じものであり、今まで二極であったものが統合されていく映画なのだ。

そこが、すごいところなのだ。



目に見えず、確認できない曖昧な「愛」の世界。

目に見え、確認できる、明確な「科学や物理学」の世界。

これらは、今までながらく相反する、対極とも呼べる構図をとってきた。




劇中の <人類移住のための星の候補がふたつ有るが、船の燃料の問題で、どちらか一つに決め、探査に向かわなければならない> というシーン。


マン博士の星と、エドマンズの星。
どちらからも信号が来ている。距離や見込みの度合いなどで簡単に決められない。

生物学者のアメリアはそこで、エドマンズの星を推す。

「愛は人が発明したものではない。しかし観測可能な力であり、まだ解明されていないだけで、私たちにも感知できる。時間も空間も越える。」

彼女は、従来の理論や理屈ではなく、「愛」という感覚から、エドマンズのいる星に引き寄せられ、行きたいと言う。

クーパーはそれを「科学的・論理的でない」と却下し、マン博士の星に行くことに決まる。


しかし、一行がマン博士の星に着いた後に、結局そこは人類移住には全く適さない星であることがわかり、挙げ句にはマン博士の暴走により甚大な被害を人的・物資的に被ってしまう。

そしてラストシーンで明らかにされるのだが、
アメリアの言ったエドマンズの星は、不毛の地でこそあれ、ヘルメットを外しても呼吸できる大気のある星であったのだ。



クーパーはこの物語の終盤、ブラックホールの中に入ることになり、そして《特異点》にたどり着く。
一度は「愛」の力について否定したクーパーだが、そのとき、彼はすべてを悟る。


時空を越える唯一の「重力」

アメリアが言った時空を超越する「愛」

全く同じものであると。



今まで人類は科学という世界観の中には、愛というものを入れてこなかった。しかし、科学の世界はそれでもどんどんと進化、深化していき、ある限界点とも呼べる場所に行き着く。


無限大の密度(重力)をもち、同時に全く質量のない《特異点


この特異点の謎が解けない限り、完璧な理論の完成は叶わない。


映画の中で、科学の世界では「特異点」と呼ばれるその点に、クーパーはたどり着く。

そこには、無限に広がる愛娘マーフの部屋。時間と空間が無限に展開される場。


そこで彼は、「重力」というもので時空を越えたメッセージをマーフに送り、それをキャッチした彼女が重力の謎を解き、地球の人々を救うのである。





しつこいようだが、もう分かるであろう。

この映画は、ものすごく科学を突き詰めたからこそ、対局にあるとされてきた愛というものを、同時に解き明かしたのである。


言葉にしてしまえば、一言なのである。



すべては愛である。




その壮大な証明を"科学的に"してくれた、映画なのである。

311

5年前私が感じていた、当時は 只中で感じ入る余裕がなかった、でも確実に心に沸き起こっていた強烈な感覚。
ふとよみがえってきた。涙が止まらなくなった。



あの時私は、不安や悲しみでいっぱいだった。
でも、それ以上にすごくすごく大きな、愛の循環を体感していて、心が震えていた。


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今さっきまでそこにあった家、道路、人。
今までもこれからもそこにあり続けるだろうと疑わずにいたものが、いとも呆気なく、一瞬でそこからなくなってしまう。
これを、津波の映像をリアルタイムで見たときに、感情より先に、知った。悟った。
人が思っている未来や過去は幻想、かげろうみたいなものなのだ。それはいいことでも悪いことでもない、淡々として厳粛な事実なのだ、と。

「今」しか存在しない。

かげろうのような過去や未来にとらわれて、「今」という、唯一で尊い一瞬をもう絶対に見失いたくない。と、強烈に感じた。
「今」というものを最大限に感じて尊んで、生きよう。って、誓った。

当たり前、という感覚はこの「今」という瞬間の尊さに気づくことを鈍らせる。
しかし私の中の当たり前が、大地震が起きて、一瞬で当たり前ではなくなった。それはとてもショッキングで悲しくてやるせなくて、と同時に、「今」という瞬間への気付きと、それに伴う愛をもたらしてくれた。

「今」何か特別なことが起きるから「今」が尊いわけではない。
「今」何かがあろうがなかろうが、楽しかろうが悲しかろうが、どんな「今」だろうが、それはもうその瞬間にしかなくて、唯一絶対の「今」だから、尊い。
「今」の"状態・状況"で「今」の価値や尊さが上下するわけではく、絶対的な尊さであり価値。
人間の考える正しいとか誤ってるとか優れてるとか優れてないとかそんなのでジャッジしていいような、そんなチンケなものじゃない。
だから、すべての「今」を受け入れて、すべての「今」を私として、全身で生きよう。と誓った。


その誓いは、私なりの追悼であったし、祈りであったし、応援であったし、感謝であったんだと思う。

悲しみが深かったからこそ、この素晴らしい誓いを立てられたんだと思う。

「今」を受け入れ「今」を全身でいきる。


そして「今」を受け入れることは、私が私自身を、世界を、宇宙を、受け入れるということだ。





人間は生まれて死ぬまで、今という瞬間の繰り返し。
その、ものすごくシンプルで、でもとても深淵なことに触れて、私は心が、というよりは魂が、とても喜んでいると感じた。


地震そのものは、プレートがものすごく大きく揺れ動く、という、淡々とした事実であり出来事。
それを悲劇とか、天罰とか、そうやってジャッジして、何か物語や性質を付加するのは人間の思考。

何かが起きて、悲しい気持ちになる。落ち込む。喜ぶ。楽しい気持ちになる。
この「感情」は、人間らしさであり素晴らしさであり尊いものだと思う。それを、ネガティブは良くないとかそういうジャッジをせず、すべてOKした上でちゃんと感じる。

出来事のことも、良い悪い、正しい正しくないでジャッジするのではなく、あるがままを、そっか、と受け入れる。その上で快や不快、好き嫌いという感覚を大切にする。




311という一連の出来事は、私に、人間として生きる根元的な喜びを気づかせてくれた。思い出させてくれた。


あの時感じた、人が人を助ける深い優しさ、祈る慈愛、向き合い受け入れる力強さ。それは、世界中で起きて。色んな人間の強烈な命の輝きが眩しくて、切なくて、嬉しくて、人間の凄さを毎日、ひしひしと感じていた。
どんなに悲しくても、不安でも、それ以上に、だからこそ、強烈に人のきらめきと世界に満ちている愛を感じた。
傷ついたひとに寄り添う人の優しさに、いちいち感動した。
この困難な状況を何とか乗り越えようと支えあい、勇気や覚悟をもって動くひとの強さをみた。

大変なことかもしれない。悲劇かもしれない。未曾有の事態かもしれない。
それでも、なんて人間は素晴らしくて、なんてこの世界は素晴らしいんだろう。





この尊さに気づける心を、絶対に忘れない。

身体と言葉。


体調を崩し、動きたくても動けないという状況でひらめいてしまったことがある。




私は最近、〈言葉〉という《有形・有限》のものを使ってする遊び、「言葉遊び」が好きだということを自覚した。
もう少し細かにいうと、《無形・無限》である〈本質〉を「かたち/《有形・有限》にあらわす」そのことを楽しんでいる、喜んでいるんだと気付いた。


そこでふと、何かを感じる。
うん?何かこの、《無限》↔《有限》の楽しみの構図ってすごく見覚えがある…何だろう…?


あっ!!!!!
私たちのこの世界のこと、そのものじゃないか!!!!!
その、ミクロバージョンじゃないかっ!!!!



って、ふってきた。


まず、人間の身体。これって有形だし有限。
でも、人間の本質は(矛盾してるっぽいけど)その有限性をも内包した無限性。

人間が良く感じる、お金がほしいとかそういう欲求って、結局 綺麗な模様が印刷された紙や金属の塊やが欲しいんじゃなくて、お金があることでできることを享受する〈喜び〉だったり〈自由〉や〈安心〉がほしいってことで。
その〈喜び〉や〈自由〉は目に見えないし、触れないし、嗅げないし、紛れもなく《無形・無限》なこと。
これは人間のどんな欲求でも全く同じ。
表面では《かたち》を求めているようでも(モテたいとかも)、本当はその奥の《無形》の〈愛〉とか〈楽しさ〉とかそういうものを求めている。
〈身体〉という《有限》なものを使って、通して、〈感情〉という《無限》なものを感じる。
これが人間。人生。


そして、目の前に現れる現実。これは有形。(再び矛盾してるっぽいけど(笑)、現実は有形かつ無限かもしれない)
今までは、〈現実・自分が視覚、知覚する世界〉は、自分とは全く無関係で、勝手に何かが起きて、自分はそれにただ反応するだけだと思っていた。
今は、勝手に何かが起きるのではなくて、自分の〈心〉のありよう(無形)が先にあり、それが現実としてかたち有るものとして投影されているんだと知った。
そして、その事実は、《無形》が《有形》にあらわれるというということだ。


言葉を使うことも、身体があって生きてるのも、現実があるのも、ぜーーーーんぶ《無形・無限》が《有形・有限》に面白いこと変化しただけなんだ。

って。

で、今書いてて気づいたけど、《かたちあるもの》はすべて、《無限性》を内包してるってこと。何か字面だと矛盾しているけど、でも、それが真実なのだな。
これは仮説とか仮定じゃなくて、事実を体感で知った。ってことだから、信じる信じないでもなく、本当に淡々とした、でもとっても神秘的でロマンティックで宇宙的で愛に溢れた気付きなんだと思った。

折々、2


朝から雨が降っていて、部屋の中から寒そうだなと見ていたら、出掛けようと玄関を開けるとむしろ、なま暖かくて濃い空気が顔に当たった。

このにおいと空気感。わき上がる予感。
毎年この時期になると、うれしいような寂しいような懐かしいような悲しいような、色んなものがないまぜになった感情で胸が苦しくなる。
新しいことが押し寄せるちょっと前。引き返せないとわかっている、前を向くしかないと大気が言っている。


繰り返した「出会いと別れ」の集合意識が、においに乗ってやってくる。

ごはんつくろう。

正直、お料理すること自体はそんなに好きじゃない。
でも、すてきな器のなかにお料理がおさまる瞬間が好き。

食べるのは大好きだけど、こと作り手としては、調理の過程より 盛り付け。そしてテーブルセット。ここに悦を感じるのである。

といいながら、日ごろそんな大層なことをしているわけではないし、一人暮らしとなると盛り付けはおろか、自炊の遂行すら怪しいものなのですが。


と、今日見かけたすてきな器に思いを馳せつつ、新たな課題を見つけるわたくしなのであった。

コイがいた。

 

海のにおいがする。と思って立ち止まってみたら、何度も通った所なのに、いままで気付かなかった。

お池?小川?にたくさん、鯉が泳いでいた。ゆったりと。

きょうのお散歩の成果。

 

しかし桃の節句らしいことはできず、お気に入りのローズオニールキューピーちゃんの雛飾りも今年は出番なしでおしまいなのが、すこし寂しい。

 

 

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