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映画インターステラーを観て思うこと

インターステラーを観た。


以前「個人的に最も面白い映画」とひとに紹介され、どんな映画かよく分からないまま観た。
が、その時も、ポスターやあらすじ紹介から予想していたものとはもう次元が違った、すごい!映画で、とにかく衝撃を受けた。


すごい!ポイントは数多あり、なかなかすべてを一度に語るのは難しい。
しかしそんな「インターステラー」の魅力や難しい理論の解説などを、分かりやすくかつ濃密に記した素晴らしい記事はすでにたくさんある。


ただ、たとい重複があったとしても改めて自分自身のなかの膨大な思考や感覚の旅の軌跡をアウトプットしたい、と思ったので、自分が飽きるまで、つらつらと大小感じたこと気ままに書いていこうと思う。





まず、この映画はSF映画に分類されるが、そのSF具合が、かなりかなり、ハードコアである。

もちろん大前提が娯楽としての映画なので、純粋な物理学のシミュレーション映像というのとは性格も目的も異なるが、基本的に、かなりシビアな物理学的な計算や理論が通底している上での映像とストーリーだということ。





私は知的好奇心の行き着く先、宇宙論が大好きなので(数字とか計算とかは超・苦手だが)、この辺のコリにコリまくった演出に、単純にしびれた。

今まで本などであくまで理論的に、二次元的に表現されていた事象が、映画というかたちで、まさに疑似体験の域で感じられることへの興奮。


ワームホール」や「ブラックホール」、「事象の地平線」などなど、在ると知っていても地球での日常生活のなかではうまく想像すらできない、摩訶不思議なものを、この超ゴリゴリのSF映画は、リアリティをもった映像として、目の前に見せてくれる。すごい!

そういうのが好きな人は、本当に、ドラマなどはすっ飛ばして映像だけでもじゅうぶんに楽しめるはずである。


しかし!それでは正直、この映画を観たことにはならない。というか、宇宙に惹かれ、抗えない探究心があればあるほど、これはただのSFという枠に収まるものではない、と気づくのである。




この映画を観た人が抱くであろう物語の印象は、おそらく多くの人が、「父と娘や人と人の絆・愛の物語」「人類の果てなき旅」「ハードコアなSF的描写」などなど、こんな感じであろうと思うが、
人によって人間ドラマと捉えるか、SFとしての完成度を楽しむか、どちらかに片寄って別れるところだろう。
文系的か、理系的か、というところである。


前者は宇宙論などにはあまり興味がないというか、だからこそ知識もなく、途中からワケわからん状態になりそうだ。結果、「父クーパーと娘マーフの愛の物語」"だけ"しかテーマを感じられない。

後者はSF映画を楽しむ知識はあるが、作中の「愛」とかそういうシーンには胡散臭さを感じ、従来の理論理屈で説明できる描写にしか萌えることができない。



私は、もちろんそれぞれがこの作品の大きな魅力であると思う。間違いない。
しかし、それらは一見異なる性質であり、それぞれが独立した別のテーマであるようだが、本当は、全くどこにも区切りや線引きのない、全く同じものであり、今まで二極であったものが統合されていく映画なのだ。

そこが、すごいところなのだ。



目に見えず、確認できない曖昧な「愛」の世界。

目に見え、確認できる、明確な「科学や物理学」の世界。

これらは、今までながらく相反する、対極とも呼べる構図をとってきた。




劇中の <人類移住のための星の候補がふたつ有るが、船の燃料の問題で、どちらか一つに決め、探査に向かわなければならない> というシーン。


マン博士の星と、エドマンズの星。
どちらからも信号が来ている。距離や見込みの度合いなどで簡単に決められない。

生物学者のアメリアはそこで、エドマンズの星を推す。

「愛は人が発明したものではない。しかし観測可能な力であり、まだ解明されていないだけで、私たちにも感知できる。時間も空間も越える。」

彼女は、従来の理論や理屈ではなく、「愛」という感覚から、エドマンズのいる星に引き寄せられ、行きたいと言う。

クーパーはそれを「科学的・論理的でない」と却下し、マン博士の星に行くことに決まる。


しかし、一行がマン博士の星に着いた後に、結局そこは人類移住には全く適さない星であることがわかり、挙げ句にはマン博士の暴走により甚大な被害を人的・物資的に被ってしまう。

そしてラストシーンで明らかにされるのだが、
アメリアの言ったエドマンズの星は、不毛の地でこそあれ、ヘルメットを外しても呼吸できる大気のある星であったのだ。



クーパーはこの物語の終盤、ブラックホールの中に入ることになり、そして《特異点》にたどり着く。
一度は「愛」の力について否定したクーパーだが、そのとき、彼はすべてを悟る。


時空を越える唯一の「重力」

アメリアが言った時空を超越する「愛」

全く同じものであると。



今まで人類は科学という世界観の中には、愛というものを入れてこなかった。しかし、科学の世界はそれでもどんどんと進化、深化していき、ある限界点とも呼べる場所に行き着く。


無限大の密度(重力)をもち、同時に全く質量のない《特異点


この特異点の謎が解けない限り、完璧な理論の完成は叶わない。


映画の中で、科学の世界では「特異点」と呼ばれるその点に、クーパーはたどり着く。

そこには、無限に広がる愛娘マーフの部屋。時間と空間が無限に展開される場。


そこで彼は、「重力」というもので時空を越えたメッセージをマーフに送り、それをキャッチした彼女が重力の謎を解き、地球の人々を救うのである。





しつこいようだが、もう分かるであろう。

この映画は、ものすごく科学を突き詰めたからこそ、対局にあるとされてきた愛というものを、同時に解き明かしたのである。


言葉にしてしまえば、一言なのである。



すべては愛である。




その壮大な証明を"科学的に"してくれた、映画なのである。