SOUPiFUL

peaceful・soup

寂しさというものは悪か


あまりにも強烈で、自分自身が手に負えないと感じるほどの寂しさと不安。


私は長年この身体の奥に染み込んだ「強烈な寂しさ」を、持て余してきた。



母親との関係で深く傷ついた事以外は、私の人生での人間関係はのどかで優しくて幸せであったと感じる。



にもかかわらず、私は時に発作的に強烈な寂しさに包まれて、真っ暗な世界に沈み込むようなその感覚に支配されて、目の前にある安心や愛情が全く見えなくなってしまう。

全世界から否定され、この世界に自分が認められ安心できる居場所はどこにもない。という気持ちになってしまう。


これは、私にとって唯一の肉親である母に優しくしてもらえなかった・受け入れてもらえなかったという、古いけれど深く刻まれてしまった記憶が、何かのきっかけで呼び覚まされるからだと思う。




「お前なんて生まれてこなければよかった」
ということを何度も何度も、二人きりの世界で、言われ続けてきた。

知らないうちに私は自分の事を、
「私がただ生きているのはいけないことなんだ。」
と思うようになり、
「何とかして、生きていてもいい理由を作らなきゃ。」
と考えるようになった。

はじめは
「母親の言うことを聞いて、母親を喜ばせれば、なんとか生きることが許されるのだ」
と考え、母親の言うことを聞くように頑張った。


しかしだんだん無理が出て来て、要求に応えられなくなると、また
「お前なんて生まれてこなければよかった」
といわれ、

「こんな私はやっぱり生きてちゃいけないんだ」
と自分の存在をそのたびに否定して、そんなことを何度も繰り返すうちに、知らずに傷がどんどん深まっていった。


その自己否定感はどんどん膨れ上がり、母親との関係のなかだけでなく、外の世界でも常に感じるようになってしまった。

少し誰かに何かを注意されれば、
「お前なんて生まれてこなければよかった」
と言われているような気がして、一気に萎縮して自分を責めた。




その一種の思い込みというか、トラウマからくる発作は、親元から離れてから徐々に落ち着いてきたように思う。

色んな人とかかわり合うなかで、私の考えが塗り替えられ、この不安感は気のせいだ、と頭で理解するところまでは、つい最近、やっと来れた。



でも、まだまだ奥深いところにこびりついてしまってなかなか剥がれない、存在することへの不安。



これはもう、私にとって人生のラスボスみたいなものかもしれない。
この感覚を払拭しないことには、どんな人と関わろうが、必ずまた発作が出てしまう。
発作に苦しめられるのはもう嫌だ。


ただし、このラスボスを倒して新しいステージに行くことは、誰でもなく、自分自身にしか出来ないこと。


ラスボスを倒す不安や心細さを、誰かと共有することはできても、ラスボス自体は自分以外の誰かが倒すことはできない。


それはとても重い事実だけど、だからこそ、きっと何とかなる。とも思う。





そして、もしそのこびりつきが、存在することへの不安が、剥がれたとき。

そのあとの人生では一切寂しさや不安を感じなくなるのか。といったら、きっと、

嬉しい、楽しい、悲しい、ムカつく、という色んな感情と一緒に、たくさん感じていくのだと思う。





どんなに人生を振り回されても、どんなに苦しくても、さまざまな表情であらわれる「感情」は悪でない。


人間が、人間としてこの世を味わうための、「味わい」そのものであるから。

感情を味わうことが人生であり、「幸せ」そのものであるから。