SOUPiFUL

peaceful・soup

グッと来ちゃうもの。



私は 人間的な性質の中で、intelligenceとhumorというものに、絶対的な憧れを感じている。

(日本語の知性とか叡知とかいうより、私の中のニュアンスにより近いので英単語を使います)



intelligenceは、もって生まれた人の資質の一部でもあるし、生きていくなかで深みを増していくものでもあると思う。


で、intelligenceというのは、人が内から沸き上がるもの
ーーーたとえばとどまらぬ好奇心や、肉体的な欲求や、精神的な欲求など、人間に生物としてプログラムされているパッションーーー
に従い、そこで得た感覚(感情や体感)の、実地から得た一連の経験の蓄積によりもたらされる、深い洞察力や推察力のことであると思う。

その力が深まるほどに、世界を捉える眼は、ニュートラルな視点になっていく。


とはいっても、我々人間は感情・感覚の生き物。
ニュートラルだけでは生きていけない。

やはり、生きていれば様々な感情のなかで、ときにもみくちゃになる。
それはそれで、いいのだ。存分に味わえばそれでいいのだ。

ただ、その感情が起きて常に揺れている層と、ニュートラルな層が深いところに確かにあるという状態が、私にとっては悟っている状態で。


そのニュートラルな層に深みをもたらすのが、intelligenceであると思う。






そして、humor。
これは、intelligenceを内包する、遊びの部分。

humorがhumorたるには、intelligenceによるニュートラルな視点は必要条件なのである。


人が何かに面白さを感じることと、善悪とか正誤の二極性の価値観とは同じ層には存在することができないのである。

二極性をメタ的に捉えたり(そのメタ視点自体がメタな二極性でもある場合も)、二極性とは別質の価値観の位置にあるときに、始めて面白いと思うスペースが生まれるからである。

要は、対象と同じ土俵に立っているうちは、絶対に面白いとは思えないのである。

面白いという感覚は、余裕・余白・スペースから生まれるものであるから。



で、私は、人生を面白がって、楽しく生きたいのである。

軽んじたり、バカにするのではない。

寧ろ、深いintelligenceを持ち合わせていればいるほど、自ずとすべてに対する畏敬の念や、まっすぐなプライドが生まれるはずだ。


改めて私にとっての悟りとは、
深い層では常に愛を感じ、表層で沸き上がる感情はただ感じる、という軽やかな状態である。


その状態に近づく力。人間力。というものがまさに、
intelligence と humor に凝縮されていると。私は考えているのである。


だからこそ、その性質に絶対に憧れるし、他人のなかにそれを見出だすと、めちゃくちゃグッと来ちゃうのである。



そういう意味で私は、

宇多田ヒカルさんや、Crazy Ken Bandや、Pizzicato Fiveの世界観に、intelligenceとhumorを見出だし、グッと来まくっているのであると思う。

あ、あと、よしもとばななさん。



はい、長くなりましたが、彼らと彼らの産み出すものが好きですってことです。