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「自分の感覚がすべて。」の考察。


「自分の感覚が全て。」

ってどういうことかというと。その証明?をしていきたいと思います。



ここからは、かなりひねくれた論理になってきますので、気が向いたかただけ、どうぞ。(笑)



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たとえば、私に、何の疑う余地もなく「仲よし♪」と思っているお友だちがいたとします。


一緒にいる時間も長く、会えば、何をするでもなくお互いに楽しい気分になっちゃう。そんなお友だち。



でも!
そのお友だちが実は超絶ウソが上手で、人を騙すことが生き甲斐で、私と仲のいい雰囲気で過ごしている演技をしているだけだったとしたら。心のなかでは、しね!とか思ってたりしたら。

実は仲良しではなかった、ということになりますよね。


あはは、そんなわけない、と思いますか?

では、そんなわけない、「本当に仲よし」ということを証明できますか?

誰が聞いても、どこから検証しても間違いないという、絶対的な真実として、真理として、証明できるでしょうか?


いったん感情や常識を排除した、とてもシビアな頭で考えると、その証明は不可能だということがわかると思います。


逆に、「仲よしではない」ということも、同じように、絶対的な真実として証明できるすべはありません。



とすると、この場合。

「私とあなたは、お互い強い繋がりを感じあっている。お互いが一緒にいると心地がよい。」

と、あなたが疑う余地なく感じているその感覚そのものが、ある。ただそれだけ。ということです。



どっちにしろ、目に見えるこの世の全てのことを、「これが真実である」とまるっと証明できるすべはないのです。


究極を言ってしまえば、今世界で真理とされていることすら、「今のところ、この世界観のなかでは、たまたま真理に見えるだけ」で、真理を真理と外側から証明することは不可能なのです。

ひとつの世界観のなかで再帰的な証明が繰り返されるだけなので。




ああ、デカルトみたいになっております。
というか、デカルトはそういうことを言っているのだと思います。

「我思う。ゆえに我あり。」

有名ですね。

そしてこの言葉の私的解釈は、

「絶対的な真理を求め続けたけど、結局気付いたことは、私自身が感知することがすべてであるということだった。それ以外のものを、真理と証明するすべはない。」

こういうことです。


そこで、ああ、なんてむなしい事実なんだ。と感じるか、
そもそも、この事実を受け止められるアタマがないか、
それとも、ああ、そうか!じゃあ、あれこれ難しいことを考えるのは止めて、自分がいい!ここちよい!と感じさえすればいいや!と ある意味開き直るかは、
本当にその人次第ですが。


私は、どっちにしろ今 中村テラとして生き、色々な出来事を通して色々な感情を味わっていることは間違いないので、それならば、せっかくならば、私にとっての「快」を追求しちゃおう。



そんなふうに"思って"いるわけです。



ちゃんちゃん。