最後があるのはお約束。
近ごろ、おうちで過ごす時間が増えたので、自ずと猫ちゃんと過ごす時間も増えました。
そうそう、うちには二匹の猫ちゃんがいます。
ある出来事がきっかけで、もともと母が飼っていたのを、去年の冬、私が引き取りました。
もともと拾い猫ちゃんなので、正確な年齢はわかりませんが、
4歳前後のオスのラブくんと、10歳以上のメスのノブちゃんの二匹です。
うちに来てから数ヶ月、私がバイトで忙しくし過ぎていたのもあり、ふれ合う時間はごく僅かでした。
でも、仕事を最低限と思われる程度に減らしてから、自由な時間が増えたので、
その時は嬉しくてたくさん撫でたり、だっこしたり、ブラッシングしたり、と、触れあえる喜びを感じ、スキンシップを楽しんでいました。
だんだんなついてきてくれるのが分かり、それもまた嬉しかった。
でも、私の中でその時間がだんだんと、「慣れて」「当たり前」のものになっていってました。
最近は、にゃあと呼ばれても すり寄られても、あまり反応しなくなっていたし、場合によっては鬱陶しくさえ感じていたこともあった。
そんな中、ふとした瞬間に、ノブちゃんの体力の衰えを感じるようになりました。
ジャンプなどの動きが鈍ったり、ちょっとした時の力の無さだったり。
そんな姿を見たら、確実に寿命が近付いていることを気付かされました。
ふと、こんな風に彼女との触れ合いを楽しめるのはあとどれくらいなんだろう。とか、
死期が近づいて動けなくなってしまっても、ずーっと隣で見ていてあげたいな。
とか考えたら、胸が苦しくなってしまって。
今こうして触れあえることは、ぜんぜん、「当たり前」なんかじゃないなぁ。
今というものの尊さを、見失っていたなぁと気付いて。
そして、これはノブちゃんに限った話ではなくて。
生きているものはすべて、一瞬、一秒ずつ、確実に死に向かっている。
どんな形ある命も、最後は形がなくなってしまう。
そして、その「死」という絶対的な離別は、いつどの瞬間に、誰の身に起きるとも分からないもので。
確率論的に言えば、私はまだ二十代で、死には遠い存在にも見える。
でも、事故や、災害や、予想だにしない出来事で、明日には生きていないかもしれない。
そしてそれは私の目の前にいる、私の大切な人も同じことで。
「死」の可能性は、いつでも誰にも等しく存在するのだ。
こんな言い方をすると悲観的に映るかもしれないけれど、これは温度のない、ただの事実なのです。
そんなことを改めて感じ入って、
やはり私は、死に際に後悔することだけは嫌なので。
目の前の大切な人や、ものへ、出し惜しみせずに、気持ちを伝えたいと思いました。
誰かと別れるときは、それが最後の別れかもしれないと思いながら、さよならという。
また会えたら、また会えて良かったと、心底思う。
人によっては、こういうのは暑苦しいのかもしれないけど、
「死」を意識したら、今何かを出し惜しみするような気持ちには、私はなれない。
そんな風に、思いました。