憧れの対象の選別
お金持ちに憧れるか
と聞かれたら、迷わずYES。
ただ、どんなお金持ちも素敵で憧れるか
と聞かれたら、NO。
私の世界には
素敵なお金持ちと素敵じゃないお金持ちがいる。
私より資産があるという一点だけは、
どんな人でも間違いなく憧れるしリスペクトするが、
どうせ憧れ目指そうとするなら、
私にとって全面的に素敵なお金持ちがいい。
んで、その時に憧れる先が、
自分のセンスが問われるとこよね~~
と思っていて。
んで、今んとこ、
全幅の信頼で憧れられるレベルの人間には出会えてない。
出会えてないというか、いても、情報が少なすぎる。
なんというか、私が最高に大好きでときめくようなおしゃれなお金持ちは、
もう、ハナっから今の自分とぜんっぜん違う世界に生きている。
交わらない。
だから 基本的に、今の私が簡単に目にすることができる
程度のお金持ちは、自動的に私の憧れの対象ではないのですよね。
お金がいっぱいあっていいなぁ~。
いろんな事が出来るんだろうなぁ~。
程度の関心。ときめき度100のうち40くらい。
だって、お金をたくさん持ってること以外の部分も、
しびれるほどカッコいいって人が少ないんだもん。
ここまで書いて、
ああ、何て身の程知らずで罰当たりで失礼な言いぐさなのだろう。
と我ながらビビっているわけですけどね。
でも、資産の多さより、まず「かっこいい」ことが
何よりも大事な、かっこつけの自分としては、
自分の満足のためには、
「カッコよさ」は必要十分条件で、
「資産」は十分条件というかんじなのですよね。
ダサいままお金持っても、ダサいお金持ちになるだけなので、
カッコよさはお金以上にストイックに求めていきたいのですよね。
で、この「かっこいいとはこういうことさ。」
という、どこかの豚さん的なことを見せてくれる人が
身近にいてくれたらいいなーーーなんて思っています。
(皆それぞれかっこいいところがあるけど、
もっと隙のないカッコよさを体現する人を見たい)
でもって、私の考える「かっこいい」「おしゃれ」
ってのはこいうこと。
という、いわゆる「美学」のがあるのですが、
その件に関してはまだ端的に表すことができずに
モヤモヤしています。
それは一般的に使われる「美意識」とはベクトルがちょっと違う気がしますが、
私の中で絶対的な「美」とされるものがあり、
それを追求していくパッションは並々ならぬものがあると思うので、
他人から認識されるかどうかは別として、
美意識は猛烈に高いという自負があります。
日を改めて、言語化により明確化したいと思います。
明晰夢
突然ですが、皆さん。
「明晰夢」って、見たことありますか?
私は、謎めいたものがとにもかくにも大好きで、なんとしても解き明かしたいという情熱がどこからともなく沸いてくるのですが(地獄の果てまでついていく さそり座の女です)、
「夢」についても、そのうちの1つでした。
そして「明晰夢」というのは、夢の中で、
「これは夢である」
と自覚している状態のことで。
当時は「明晰夢」という言葉も知らなかったのですが、小学校くらいの頃に、
夢の中で、夢って気付いたら、あんなことやこんなことが好きにできるんじゃね!?!?(☆∀☆)
と、ふと閃き、夢の中で夢と気付けるように自分なりに策をこうじたら、
ある日突然、見ることができました。
夢の途中で、「あ、待てよ?これ夢か?」
となる感じで、最初から自覚することは出来ないのですが。
(ていうか、夢の始まりって何処なんだ。)
そもそも、「明晰夢」のことを閃いたのは、
たまに見る楽しい夢を、行き当たりばったりではなく
自分で意図して作れたらちょーー面白そう。と思ったからで。
夢で空を飛ぶのが好きだったんですよ。
で、空を飛ぶのは現実ではできないから、夢で思う存分やろうと。
そして面白いことに、
実際に夢と自覚した時に空を飛ぼうとすると、少しはからだが浮くんですが、
「思い通り!」
ってほどは自由に動けなくて。
けっこう気合い入れないとからだが浮いていかないんですよ。
あと私の場合、走るのが上手くできないことがあります。やたらとろい。
スイスイ飛んだり走ったり出来ることもあるんですけどね。
なので、ここで、
夢と自覚しても、夢を自在にコントロールするには、テクニックや鍛練が必要だ!
という風に思いました。
そしてまた別の日、何かから逃げている夢を見ていた時でした。
確か私は正義の味方みたいな設定で、ショッカーみたいなのに追われてたのかな?
で、建物の中にいたのですが、追い詰められて、窓際だかバルコニーだかに立っていたとき、
あ、これ夢かも。と思うのです。ただ確信はしてません。
そして、
夢ならこの窓から降りて空飛んで逃げられる!でも夢じゃなかったら死ぬ…
と葛藤します。
そしてさらにふと思います。
これが現実だったとしたら、「空を飛ぶ」という発想すらわかないはずだからこれは夢だ!と。
でも窓から下を覗くと、リアルだし、本当は現実だったらどうしようと思いつつ、勇気を振り絞って窓からダイブ!
したら、無事に空を飛んで逃げおおせたということがありました。
夢かも?とは思っても、夢の中ではすべてをリアルに感じることは、どんな時も変わりないことを、改めて知りました。
そんな中ある時、すごい怖い夢を見たんですよ。
ゾンビとか出てくるようなホラー系かな?
怖すぎて、もうやだーーーーー!!!!ってなったんですが、
その時に、ふと夢と自覚しまして。
自覚しても、怖いストーリーは目の前で続行してるわけですよ。
だから、
もう夢から覚めちゃえ!
って、目をぎゅっとつぶって、開けると、
あ!怖い夢終わった!私起きたんだ!
と思って安心したら、違うストーリーの夢に切り替わっただけで、まだ夢の中であるのに気付きます。
で、一瞬怖くないストーリーの夢っぽいのですが、何故かまた怖い方向に行っているので、
今度こそ起きる!!
と思って、もう一度目をぎゅっとつぶって、かなり気合いを入れて瞼を開けようとして、
パッ!という瞬間。
汗だくの自分が暗い部屋で天井見てました。
あーー、今度こそ目が覚めた。夢でよかった。
と安心して、少ししてからまた、眠りについたということがありました。
新しいテクニックを身につけた瞬間でもありましたね。
その後もたまに明晰夢を見ては、地味に楽しんでいました。
で、面白いのが、夢と自覚しても、コントロール出来るのは自分の行動だけで、
目の前の映像や人の反応は、予測不能なんですよ。
やろうと思えば、そこまでコントロール出来るのかもしれないけど。
あ、今思い出したけど、目の前の誰かの反応を、念じてコントロールするみたいなことは出来たかな?
例えば、目の前の人にどうしても同意してほしい場面だとしたら、
(同意する同意する同意する同意する…)
と思いながら、相手が同意している所をイメージすると、
大抵その通りになります。
上手くいかないときもあります。
この念じるテクは、夢と自覚していないときにも、自然とやっていたことでした。
この「思い通り感」が気持ちよかったです。
そんなこんなで、夢の楽しみ方を少しずつ開拓していった私ですが、
これって、現実でも変わらないのではと思ったんですよ。
正直、夢と現実の違いってさほどないと思います。
今「現実」と呼ばれているものは、たまたまストーリーの継続時間が長いだけで。
「夢」のなかで夢と自覚する人は、多くないと思います。
だって、夢を見ているときは それがその人にとってリアリティ溢れる、「現実」そのものなのだから。
目が覚めたときに、「あ、夢だったのか」ってなることがほとんどでしょう。
どんなに怖くても、どんなに悲しくても、どんなにエロくても、どんなに楽しくても、
どんなに、夢で壮絶な体験をしたとしても。
夢から覚めたら、すべて終わりです。
あっけないもんです。
でも、面白い。
そういうことだと、思います。
解脱 Phase Ⅰ
かいせつ、じゃないです。げだつ、です。
皆さん、こんにちは。
最近、人生に深刻にならなくなった私です。
あ、ちょっと嘘つきました。
深刻になる瞬間もあります。
ただ、この人生って、魂が選んでいる夢であり遊びであるという感覚がふと腑に落ちまして。
快・不快を全部ふくめた、様々な「感情」を味わうための人間の時間なんだなと。
(無限の時空目線で)
そんな感覚があると、どんなに
「寂しくてしぬ…」とか、
「不安でつぶれる…」とか、
「怒りでくるう」とか
いうような状態でも、
(あ、今 激しく不快な感情を感じてる。
これは魂からしたら貴重な体験だから喜んでるぞ。フヒヒ)
と思えるくらいまでの、変態になりました。
これで不快な感情が消えるわけではないですが、
気づくと、ニヤニヤするくらいにはなれました。
皆、人生を思い通りにしたくて頑張って生きてるじゃないですか。
夢とか希望とか追いかけて。
で、何か大小様々な望みが叶うと、嬉しい。喜ぶ。
で、夢とか希望って、結局突き詰めるとすべて
「楽しい」「嬉しい」「安心」「気持ちいい 」
などに繋がることで、その人にとっての【快】の感覚を求めて生きてるってことですよね。
たぶん誰も、
「不安」「悲しい」「ムカツク」「寂しい」
とかいう【不快】な感覚を進んで感じに行こうとはしないはずです。
なるべくなら、【不快】にならずに生きたいのが人間ですから。
ではここで、お聞きします。
もしあなたが、すべてを自分の思い通りにできるとしたら、今何をしますか?なんの制限もありません。
そして、未来で何が起きるか、すべてわかるとしたら。
悩みなんか無くなりそうですよね?
すべて思い通りで、未来もわかるというか、自在に決められるのですから、不安もありません。
なんて素晴らしいのでしょう!神のようです!
一切の【不快】から解放され、
【快楽】のみに心置きなくひたれます!
死ぬまでずーーっと幸せです!
…ん、待てよ?本当にそうでしょうか?
「こんなものが欲しい。」
「こんなことしたい。」
「こんな人と過ごしたい。」
「こんな風になりたい。」
「こんな所に居たい。」
と思ったこと、これが瞬間すべて思い通りになって、
またさらに
「こんなものが欲しい。」
「こんなことがしたい。」……
と思ったら、それもすべて思い通りになって……
ずーーっと、何のつまずきも、滞りも、不安もなく、思えば思った通りになる快だけの状態が続いたら、
さすがに、どこかで飽きてきません?
だって、全部自分の思い通りだからこそ、何が起きるかも全部分かるんですよ?
意図的に、「予測不能なスリル要素」とか入れたくなってきませんか?
あ、気づきましたか?
人間は常に【快】を求めながらも、
【常に快である】状態は、【快ではない】のですよ。
矛盾してますよね。
でも、ちょっと考えればわかるはずです。
世の中、良いことしか起きなかったら、それが当たり前なので、「良いも悪いも無い」状態になるんですよ。
お金持ちであることも、モテることも、特別なことではなくなる。
不快はないかもしれませんが、同時に快な状態に対する感動もないわけです。
ピンと来ないですか?
このことを考えるときに超絶ミソなのは、我々は今、【対比のなかでしか、ものごとを認識できない世界にいる】ということ。
「有」と「無」の関係です。
「無」があるから、「有」が認識されるわけです。
なぞなぞみたいですね。
でも、この「無」の必要性を感じると、
きっと世界のいろんなものにスペースを感じるようになる。
言い方をかえると、 余裕・余白のある生き方に繋がるのではと
思っています。
快楽を追求しながらも、
私の解脱は進んでいきそうです。(*^-^*)
最後があるのはお約束。
近ごろ、おうちで過ごす時間が増えたので、自ずと猫ちゃんと過ごす時間も増えました。
そうそう、うちには二匹の猫ちゃんがいます。
ある出来事がきっかけで、もともと母が飼っていたのを、去年の冬、私が引き取りました。
もともと拾い猫ちゃんなので、正確な年齢はわかりませんが、
4歳前後のオスのラブくんと、10歳以上のメスのノブちゃんの二匹です。
うちに来てから数ヶ月、私がバイトで忙しくし過ぎていたのもあり、ふれ合う時間はごく僅かでした。
でも、仕事を最低限と思われる程度に減らしてから、自由な時間が増えたので、
その時は嬉しくてたくさん撫でたり、だっこしたり、ブラッシングしたり、と、触れあえる喜びを感じ、スキンシップを楽しんでいました。
だんだんなついてきてくれるのが分かり、それもまた嬉しかった。
でも、私の中でその時間がだんだんと、「慣れて」「当たり前」のものになっていってました。
最近は、にゃあと呼ばれても すり寄られても、あまり反応しなくなっていたし、場合によっては鬱陶しくさえ感じていたこともあった。
そんな中、ふとした瞬間に、ノブちゃんの体力の衰えを感じるようになりました。
ジャンプなどの動きが鈍ったり、ちょっとした時の力の無さだったり。
そんな姿を見たら、確実に寿命が近付いていることを気付かされました。
ふと、こんな風に彼女との触れ合いを楽しめるのはあとどれくらいなんだろう。とか、
死期が近づいて動けなくなってしまっても、ずーっと隣で見ていてあげたいな。
とか考えたら、胸が苦しくなってしまって。
今こうして触れあえることは、ぜんぜん、「当たり前」なんかじゃないなぁ。
今というものの尊さを、見失っていたなぁと気付いて。
そして、これはノブちゃんに限った話ではなくて。
生きているものはすべて、一瞬、一秒ずつ、確実に死に向かっている。
どんな形ある命も、最後は形がなくなってしまう。
そして、その「死」という絶対的な離別は、いつどの瞬間に、誰の身に起きるとも分からないもので。
確率論的に言えば、私はまだ二十代で、死には遠い存在にも見える。
でも、事故や、災害や、予想だにしない出来事で、明日には生きていないかもしれない。
そしてそれは私の目の前にいる、私の大切な人も同じことで。
「死」の可能性は、いつでも誰にも等しく存在するのだ。
こんな言い方をすると悲観的に映るかもしれないけれど、これは温度のない、ただの事実なのです。
そんなことを改めて感じ入って、
やはり私は、死に際に後悔することだけは嫌なので。
目の前の大切な人や、ものへ、出し惜しみせずに、気持ちを伝えたいと思いました。
誰かと別れるときは、それが最後の別れかもしれないと思いながら、さよならという。
また会えたら、また会えて良かったと、心底思う。
人によっては、こういうのは暑苦しいのかもしれないけど、
「死」を意識したら、今何かを出し惜しみするような気持ちには、私はなれない。
そんな風に、思いました。
テラサーガ Ⅲ
さて、私自身が、私自身を振り返ることで、何か発見があるかもしれないということで始めた、テラサーガ。
◆テラサーガ Ⅰ
http://ssssparkle.hatenablog.com/entry/2016/05/01/225125
◆テラサーガ Ⅱ
http://ssssparkle.hatenablog.com/entry/2016/05/07/085835
これから思春期以降、トラウマ形成期に入ります。
私の中では自分の精神的なブロックをたくさん抱え込んだり、自己否定するきっかけが増えた時期で、
要は、かなりこじれている時期なので、それを紐解くため、かなり細かい描写が多くなると思います。
読み物というより膨大なメモという感じです。
超絶、長くなると思われます。
暇だったり、気が向いたら読んでね。
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小学校中学年頃に、おじいちゃんが階段から落ちて亡くなる。
同時期に海外にいた叔母も、バスで移動中に崖から落ちて首を痛める。
この時、不思議なタイミングの一致を感じた。
叔母も母も「アタック」があったからということ言っており、
何となく超常的な力が働いたのかもしれないと私も感じるが、そういうものをリアルに感知できない自分に劣等感を感じる。
因みに、母は家族の誰にも頑なな態度で、特におじいちゃんとは最悪の仲だったのと、おじいちゃんのアル中の症状が酷くなっていたのとで、
家族皆、悲しいのと、ホッとしたのとがない交ぜだったと思う。
「目に見えない世界や力はあるに違いなく、それを感知しないと一人前じゃない。立派じゃない。真理に辿り着けない。だからこそ感知したいのに、できない自分はダメなんだ」
母や叔母と自分を比べることで、謎の劣等感を抱えたのがこの頃。
※母や叔母と色んな話をするなかで、スピリチュアルな世界観や知識などが小さい頃から自然と蓄えられた。ある意味スピリチュアル英才教育。
ただ知識もあるし間違いないと感じるからこそ、いまいちつかめていない自分に嫌気がさした。
中学校にあがって転校するまで、母とはほぼ一緒にいて、勉強を監視されたり、出掛けたり、色んな話をした。
母親の厳しい門限やら何やらで、友達と遊んだり、好きなことを好きなだけしたりが、できなかった。
勉強も母親が決めたものをひたすら やらされて。
そんな中、言いつけを守れず猛烈に存在を否定されたりして深く傷つく反面、宇宙のことや人生について、真理を求めてかなりディープに語っていたので、私にとって母は、
母というより、唯一無二で、魂を分けあってしまったような感覚の存在であった。
猛烈に喧嘩をすることもあるけど、それ以外の時は、一番心を開ける大親友のような感じだ。
そして大好きだからこそ、その人から「生まれてこなきゃよかった」とか「死ぬならさっさと死ねば良い」とか言われて、うまく思い出せないくらい張り裂ける悲しさだった。
じゃあ何で生んだのか、勝手だ、と言えば、
「生みたくて生んだんじゃない」「お前を見てると別れた男を思い出してムカつくんだ」と返され。
自分の存在意義や価値が根底からガラガラと崩れるような感覚で。
この頃は怒りより、悲しみや罪悪感が強かった。
何度も死にたい気持ちになった。でも、自殺する勇気もなかった。
生きるのも死ぬのも辛い。
この時の猛烈な辛さが「私は何で生きているんだろう。」という自分への問いかけへの、情熱に繋がった。情熱というよりは、執念だけど。
ただ、当時はそう思えなかったけど、ここで母親にぶつからずに全部溜め込んでいたら、死んでいたと思う。
死ぬ思いではあったけど死ななかったのは、溜め込まなかったから。
そして、おばあちゃんや叔母と、母以外の家族がいたことで、なんとかバランスをとっていた。
(おばあちゃんも叔母も私に味方してくれていたから。ただあまりにも私と母の喧嘩が絶えず辟易もしていた。)
だから、家の中では凄惨な状態でも、学校などでは平和に楽しく過ごせていた。
私が中学二年の時に、私に一番優しくしてくれたおばあちゃんが亡くなった。
家族は私と母と叔母の三人になった。
遺産問題で母が猛烈にゴネる。
叔母と母はもともとあまり仲が良くないが、ここで完全に仲違いになる。
遺産に関しては私は傍観者だが、毎日喧嘩が絶えず、ますます家が嫌いになる。
そしてほぼ絶縁状態で、母と私は千葉に越す。
中学三年に上がるタイミングで千葉に越した私と母。
新しい街を母も私も気に入った。
新しい学校でも、特に問題なく過ごした。
しかし、親子二人きりの生活で、喧嘩をすると止めに入ったり、庇ってくれる人間がいなくなり、エスカレートした。
私も、以前なら言いくるめられたりしていたことにも、反論できるくらいの言語化能力もついてきて、
親に対しての罪悪感よりも、理不尽さに怒るようになってきた。
ただ、少しのんびりしたいだけなのに。
ただ、ゆっくり家で安心して過ごしたいだけなのに。
それが叶わないことが、とんでもなく辛かった。
いつも行動を管理、監視されることが苦しかった。
言いつけを守らなければ、家を追い出されることも度々あった。
友達に助けてもらったり、家の外で朝まで凍えながら、家にいれてくれと言い続けたこともあった。
「大事な人に棄てられる恐怖感」
はここで刷り込まれた。
この頃は慢性的に傷ついて疲れていたから、色んなことのやる気をなくした。
友達に会えば気持ちは和らぐし楽しかったけど、家に帰ればまた地獄だ。
毎日を心穏やかに過ごしたい一心だった。
親の言いつけを守れば良いのかもしれないが、私にとっては膨大な勉強の課題をこなす 気力も体力もなかった。
せめてもの 友達との楽しく心安らぐ時間も、門限やら何やらで あまりなく、家に帰る気がしない私は門限を破ったりして、また締め出されたりと、
毎日が、すべてが悪循環だった。
とにかく母親から離れたいという気持ちが、高まった。
でも、絶縁状態な親戚などに相談したりはできないと思ったし、分かって貰えないだろうと感じて、一人で何とかしようと抱え込んだ。
この歳では仕事はできないけど、売春でもすれば寝るところとかお金とか、何とかなるかなとか、何度も考えた。
でも、やっぱり恐くて、猛烈にしんどいけど母親の元で暮らすことと努力を、選び続けた。
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ここまで書いて、あーー、やっぱりあの時は本当に辛かったんだな、と思い出した。
母親が好きだけど、受け入れて貰えない。
安心して過ごす場所が欲しいけど、叶わない。
それならば母親から離れたいと思うも、
母親から離れて生きる術を知らない。
どうしていいかわからない、どうしようもない、辛さだったね。
本当に、よく死なずに耐えたと思う。
よく頑張った、わたし。
外側に目立つ形ではグレなかったけど、心の中がめちゃくちゃになっちゃったね。
隣にあのときの私がいたら、ハグをしてあげたいよ。
はーーー、ほんと、よく耐えた。
それだけで、すごい。
そして、まだまだ続きます。長い。(笑)
さて、これからどうしよう。
ここ数日間、色んな言葉が次から次へと頭に浮かんできて、怒濤のようにFacebookやblogを更新した。
24年間生きてきたなかで、私なりに見つけた、世界の本質のかけら。
どうしても、私の個人的な感覚は排除できないが、
断言している部分に関しては、なるべく普遍的な内容になるように書いたつもりだ。
去年の暮れ頃から、今日まで、短期間でかなり色んなことが起きた。
猛烈に心が揺さぶられることが、たて続いた。
そして、つい最近、揺るぎない、満ち足りた安心感を感じてから、毎日が軽やかになった。
自分自身に誠実に生きること、自然に出来るようになってきたなぁと思う。
もともと、気持ちに嘘をつくのが気持ち悪すぎて耐えられないタイプだし、嫌なことをする時の我慢もきかないので、ストレスはためない方だと思っていたけど。
そんな私ですら、深いところではたくさん自己否定していたし、恐怖感や罪悪感も山ほど抱え込んでいた。
少しずつ、しんどさも味わいながら、そういうお荷物を手放していく。
以前の私なら、ここまで好き放題、ネット上で何かを述べるのは、怖すぎてできなかったと思う。
もう少しいい子ちゃんぶって、当たり障りなく、ポジティブな内容を心がけていただろう。
でも今は、思い付いて、書きたいと思ったときに浮かんだ言葉をそのまま全部出す。
心にしがらみがない感じで、らくちんだ。
私はきっと、なぞなぞ遊びのような、頭脳を使ったひとり遊びが好きで。
放っておくと、たくさん頭にエネルギーを使ってしまう。
一人でお家に居るときなんかは、もう、ずっと何か考えてしまう。
そんなことをしばらくやり続けたら、頭がだいぶ満足したみたいで、ふと急に何も浮かんでこなくなった。
そうしたら、突如 お家に一人でいることがすごく寂しくなって(猫ちゃんもいるけど)、不安になってきてしまった。
不安というのは、お金のことだけど。
好きな時間に、のんびり好きなことができる。
私を大切に思ってくれる人がいる。
そんな幸せを、ついさっきまで感じていたのに。
このまま同じ毎日を続けても、それが叶わなくなりそうな不安感。
でも、
ではどうしようか?どうしたいか?
というところが今 自分で見えてこない不安と。
とりあえず、寝とけってことかな?
「おしゃれ」で読み解く生き様のはなし
わたし、「おしゃれ」なことが大好きです。
服でも、空間でも、音楽でも、言葉でも、人でも、なんでも。
逆に言うとダサさが、不快。
でも、「おしゃれ」ってとても抽象的なもの。
そこで、私にとっての「おしゃれ」の定義を明確にしていこうと思います。
まず私にとっての「おしゃれ」は、いかに洗練されているか、そのものの持つ【世界観の純度】とイコールです。
で、今度は「洗練されている」、「世界観の純度」とはどういうことかというと。
まず、人間には、それぞれ先天的&後天的なもので構成される「好み」というものがあります。
それは、食べ物でも、色でも、音楽でも、場所でも、
それぞれが心地よく感じるものって違いますよね。
その自分の「好み」を、歪みなく自覚し、そしてそれを表現することが、その人の「世界観」を構築することになります。
その構築された「世界観」が最終的に、おしゃれと評価されたり、「スタイル」と呼ばれたりするわけです。
で、その「好み」という部分に注意点があるのです。
上に「好みを歪みなく自覚し」と書きましたが、
それはどういうことかと言うと。
《あなたが「好き」だと思っている、それは、
本当にあなたにとって純粋に「好き」なものですか?》
ということです。
それをお洋服で例えを挙げますと。
「小花柄のワンピース」を買ったあなた。
何でそれを選んだか、理由を人にしっかり伝えられますか?そのワンピース、気に入ってますか?
そこで、「何となく」とか「流行ってるから」買った。
お気に入り度は「ふつう」。
というような答えになるとしたら。
そして、今 手持ちのお洋服が、すべてそんな風に選ばれているとしたら。
残念ながら、間違いなくあなたはダサイ人です。
あー、私は、ブランドにもめっちゃ拘って買ってるしー♪ダサくなかった、よかった♪
と思ったあなた。
じゃあ、あなたは何でそのブランドが好きなんでしょう?
「皆がおしゃれって言ってるから」
「雑誌でイケテるって紹介されてたから」
では、ありませんか?
もちろん、流行りものに乗っかる楽しみもありますよね。
それを無邪気に楽しむぶんには、まったく問題ないと思います。
特に、日本人はみーちゃんはーちゃんな方が多いですし。
でもね、冷静に自分を観察してほしいのですが、
流行りものが好きって気持ちのその根底に、
「皆と同じでないと、流行りに乗らないと、嫌われてしまう」
という不安が有りませんか?
仮に、今「好きだ」と思っているものが、
流行りものではなかったら。人からは評価されないものだったら。
それでも、それを「好きだ」と言えるでしょうか?
誰になんと言われても、「好きだ」と思えるものこそ、
あなたにとって【歪みのない好み】なわけです。
そして、この歪みのなさ、純度の高い「好き!」の蓄積こそが、
確固たる、その人にしか出せないオリジナルな世界観を構築するのに、必須の条件なわけです。
長くなりました。
ここでまとめますと。
私にとっての「おしゃれ」とは、
【純度の高い世界観を持っていること】です。
フランス人はとかく、「スタイルがある」ことを重要視しますが、そういうことだと思います。
それは、人でも、創作物でも、服でも、音楽でも、何でもです。
他人の価値観や評価を一番に気にして萎縮しているうちは、
絶対におしゃれにはなり得ない。ということです。
静かなる闘志 ※猛毒記事、注意
私、無性にイライラして、コロしたくなる人種がいます。
幸い直接の知り合いにそういう人はいませんが、
「2ちゃんねる等の匿名性のある場で、やたらめったら人を否定・批判し、マウンティングし、論破論破と喜び暇を弄んでいる奴ら」
です。
そんな人たちの言葉を、イライラしながらわざわざ読んでしまう私もどうかと思うけど、当時はついつい、読んでしまっていた。
何を隠そう、私自身が、自分の知性をもってして、他人にマウンティングすることが好きだったからだ。当時は。
だからこそ、顕在意識では嫌がりながらも、心のどこかで引き付けられていたのだ。
しかも無意識、無自覚にやってしまうという、かなりイタイ タイプであった。
マウンティングされてしまった方、ごめんなさい。
そして、今。
相変わらず、人を小バカにすることは嫌いではないです。
はい、ひどい人間ですね。
しかし、「小バカにする楽しみもあるけど、他にもっと楽しいことがあるから、基本的にはそっちに注力したいし、する」
という感じで、軽いノリになりました。あれ?なってるよね?
匿名掲示板などでのさばる奴らは、
もれなく皆、ねっちょりしてる。
ユーモアもない。ディスるセンスもない。面白くない。世の中の誰より賢いつもりみたいだけど、愚の骨頂。
ただただ、不快。
全く持って、良いとこなし。
まじで、クズだと思うし、
世界平和的な目で見たら、邪魔でしかないから、ぺちゃくちゃ喋ってないで、早くしねと思う。
バカにするなら少しは面白くやってくれ。
あ、はい。全ての毒を今、吐ききりました。
すっきりしました。
受け止めてくれて、ありがとうございます。
話を戻しますと。
さんざんボロッカス言いましたが、
そんなクズな奴らも、同じ人間だと思うと、何となく放っておけない。
そんな天使な私もいます。
結局、誰よりも心の奥では寂しくて、苦しくて、助けて欲しいのは、吠えまくっている彼らのような人なんだと思います。あとは、犯罪とかしちゃう人とかね。
マッコウ臭いのは苦手なタイプですが、今ならこの言葉の意味がわかる気がします。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
この言葉の私的超訳は、
「もともと平和で幸せに生きている人間には、救いの手は必要ないが、もがきながら、苦しみながら生きている人間には、いつでも手を差しのべ救いますよ。」
という神様の声かなと。
そして、私たちは皆 神の子なので、そのスピリットが刻まれちゃってるんでしょうね、私にも。
でもね、神様はいつも目の前で救いの受け入れ体制万全でも、
当のもがいて苦しんでる本人は、そんな救いの手が見えないし、もしその手が目の前にあらわれても、恐怖が勝り、振り払ってしまう。
ああ、もったいない。
話は変わり、私は小さい頃、
猛烈にナウシカに憧れた。
美しく、優しく、強く、聡明で、皆に慕われ、姫であり、母のようでもあり。しかし、同時に悲しみを抱えている。
そんなナウシカに猛烈に共鳴し、憧れた。
私は結局。
人生に傷つき怯えている、苦しいけどこの苦しみから抜け出すすべが分からずもがいている、そんな人に、
「大丈夫、怖くない」
って、色んな角度から伝えたいんだと。
放っておくことは簡単だし、ましてや恐怖のあまり暴れる人に対抗することは、もっと簡単だと思う。
それでも、正面切って近づいていって、多少自分が傷ついたとしても、
抱き締め、大丈夫だよ。と伝えたい。
なんで、こんな面倒くさいことしようとか、したいとか思っちゃうんだろうね。
でも、やめられない。
そのための私のずば抜けた知性だし、そのための性格なんだとおもう。
頭が中途半端に良いと、世の中の理不尽などが許せなくなるのも、よくわかる。
でも、そんなことより、
もっと甘やかな世界にも行けるし、行っていいんだよ。と。
そんな中途半端な知性が吹き飛ぶくらいの、深い深い知性で、屈伏させ、気付かせたい。
これからも、そんな愛しき悪人に向かって、静かに発信し続けるであろう。
ああ、完璧で素敵なシナリオである。