鵜呑みと反芻、食い意地からグルメへ。
新型コロナウイルス、目に見えないものだからなおさら 色んな関連情報が入り乱れて、ものすごい混沌とした様相を呈している。
311の時も情報の氾濫の仕方が凄まじかった。
非日常なことが発生するたび、
インターネット上などでデマとか呼ばれるものも含め様々な情報がぶわわわわわ〜〜っと溢れる様子は、津波やウイルスのようですらある。
私はいつだって真実を求めている。
でも、目の前のものが真実かどうかをすぐに判断できるほど、あらゆる物事を知らない。
そして、真実は私にとって「まだ見ぬ最高の食事」みたいなものだと思っている。
どんな味かは分からないけど、とにかく渇望している。
そして、自分にとって最高の食事があったとしても、他人にはどうかわからない、突き詰めれば主観的なものだとも。
この例えにおいて「物事を知らない」というのは、美味しい、不味いが自分でも区別できないほど 食事の経験値が低いということ。
だからそういう状態のときは、一旦目の前のものすべて飲み込んでみて、その後も飲み込んだものが全部ぐちゃまぜの状態のまま、何度も味わってみる。
そうする中で、甘い、しょっぱい、苦い、すっぱい、とかの味覚の区別ができるようになってきて、さらにその先に、「甘酸っぱくて美味しい」とか「ちょうどいい塩気」とかの美味しい、不味いの区別が生まれる。
だけど、完璧に美味しい食べ物や、逆に完全に不味い食べ物というものは、そう多くない。だいたい、その間だ。
味付けはいいけど、食感がいまいちとか。
盛り付けはいいけど、味がいまいちとか。
あらゆる情報も同じように、完璧に正しい、とか完全に誤り、ということはそう多くない。
3分の1は事実とか。5分の2は誤りとか。
なのに、どうだろう。
たとえば「デマ」や「陰謀論」という言葉。一見情報リテラシーが高めの人間が使いそうな言葉だけど、本当にそうだろうか?
デマなのかどうか、そんなに簡単に区別できるほどお前は何を知っているというのか?
もちろん、目の前の情報をただ鵜呑みにしない姿勢は良いだろう。
しかし、結論を下すまでが早すぎはしないか?
「これはデマだ」「これはインチキ陰謀論だ」などとすぐ判断するのは、鵜呑みにするのとあまり変わらない気がする。
あらゆる情報は、正か誤か、のきれいな白黒ではない。
分からないうちは、何でも咀嚼し、反芻してみるしかない。
まだ見ぬ最高の食事を求めて。