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SOUPiFUL

peaceful・soup

身体と言葉。


体調を崩し、動きたくても動けないという状況でひらめいてしまったことがある。




私は最近、〈言葉〉という《有形・有限》のものを使ってする遊び、「言葉遊び」が好きだということを自覚した。
もう少し細かにいうと、《無形・無限》である〈本質〉を「かたち/《有形・有限》にあらわす」そのことを楽しんでいる、喜んでいるんだと気付いた。


そこでふと、何かを感じる。
うん?何かこの、《無限》↔《有限》の楽しみの構図ってすごく見覚えがある…何だろう…?


あっ!!!!!
私たちのこの世界のこと、そのものじゃないか!!!!!
その、ミクロバージョンじゃないかっ!!!!



って、ふってきた。


まず、人間の身体。これって有形だし有限。
でも、人間の本質は(矛盾してるっぽいけど)その有限性をも内包した無限性。

人間が良く感じる、お金がほしいとかそういう欲求って、結局 綺麗な模様が印刷された紙や金属の塊やが欲しいんじゃなくて、お金があることでできることを享受する〈喜び〉だったり〈自由〉や〈安心〉がほしいってことで。
その〈喜び〉や〈自由〉は目に見えないし、触れないし、嗅げないし、紛れもなく《無形・無限》なこと。
これは人間のどんな欲求でも全く同じ。
表面では《かたち》を求めているようでも(モテたいとかも)、本当はその奥の《無形》の〈愛〉とか〈楽しさ〉とかそういうものを求めている。
〈身体〉という《有限》なものを使って、通して、〈感情〉という《無限》なものを感じる。
これが人間。人生。


そして、目の前に現れる現実。これは有形。(再び矛盾してるっぽいけど(笑)、現実は有形かつ無限かもしれない)
今までは、〈現実・自分が視覚、知覚する世界〉は、自分とは全く無関係で、勝手に何かが起きて、自分はそれにただ反応するだけだと思っていた。
今は、勝手に何かが起きるのではなくて、自分の〈心〉のありよう(無形)が先にあり、それが現実としてかたち有るものとして投影されているんだと知った。
そして、その事実は、《無形》が《有形》にあらわれるというということだ。


言葉を使うことも、身体があって生きてるのも、現実があるのも、ぜーーーーんぶ《無形・無限》が《有形・有限》に面白いこと変化しただけなんだ。

って。

で、今書いてて気づいたけど、《かたちあるもの》はすべて、《無限性》を内包してるってこと。何か字面だと矛盾しているけど、でも、それが真実なのだな。
これは仮説とか仮定じゃなくて、事実を体感で知った。ってことだから、信じる信じないでもなく、本当に淡々とした、でもとっても神秘的でロマンティックで宇宙的で愛に溢れた気付きなんだと思った。