SOUPiFUL

peaceful・soup

311

5年前私が感じていた、当時は 只中で感じ入る余裕がなかった、でも確実に心に沸き起こっていた強烈な感覚。
ふとよみがえってきた。涙が止まらなくなった。



あの時私は、不安や悲しみでいっぱいだった。
でも、それ以上にすごくすごく大きな、愛の循環を体感していて、心が震えていた。


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今さっきまでそこにあった家、道路、人。
今までもこれからもそこにあり続けるだろうと疑わずにいたものが、いとも呆気なく、一瞬でそこからなくなってしまう。
これを、津波の映像をリアルタイムで見たときに、感情より先に、知った。悟った。
人が思っている未来や過去は幻想、かげろうみたいなものなのだ。それはいいことでも悪いことでもない、淡々として厳粛な事実なのだ、と。

「今」しか存在しない。

かげろうのような過去や未来にとらわれて、「今」という、唯一で尊い一瞬をもう絶対に見失いたくない。と、強烈に感じた。
「今」というものを最大限に感じて尊んで、生きよう。って、誓った。

当たり前、という感覚はこの「今」という瞬間の尊さに気づくことを鈍らせる。
しかし私の中の当たり前が、大地震が起きて、一瞬で当たり前ではなくなった。それはとてもショッキングで悲しくてやるせなくて、と同時に、「今」という瞬間への気付きと、それに伴う愛をもたらしてくれた。

「今」何か特別なことが起きるから「今」が尊いわけではない。
「今」何かがあろうがなかろうが、楽しかろうが悲しかろうが、どんな「今」だろうが、それはもうその瞬間にしかなくて、唯一絶対の「今」だから、尊い。
「今」の"状態・状況"で「今」の価値や尊さが上下するわけではく、絶対的な尊さであり価値。
人間の考える正しいとか誤ってるとか優れてるとか優れてないとかそんなのでジャッジしていいような、そんなチンケなものじゃない。
だから、すべての「今」を受け入れて、すべての「今」を私として、全身で生きよう。と誓った。


その誓いは、私なりの追悼であったし、祈りであったし、応援であったし、感謝であったんだと思う。

悲しみが深かったからこそ、この素晴らしい誓いを立てられたんだと思う。

「今」を受け入れ「今」を全身でいきる。


そして「今」を受け入れることは、私が私自身を、世界を、宇宙を、受け入れるということだ。





人間は生まれて死ぬまで、今という瞬間の繰り返し。
その、ものすごくシンプルで、でもとても深淵なことに触れて、私は心が、というよりは魂が、とても喜んでいると感じた。


地震そのものは、プレートがものすごく大きく揺れ動く、という、淡々とした事実であり出来事。
それを悲劇とか、天罰とか、そうやってジャッジして、何か物語や性質を付加するのは人間の思考。

何かが起きて、悲しい気持ちになる。落ち込む。喜ぶ。楽しい気持ちになる。
この「感情」は、人間らしさであり素晴らしさであり尊いものだと思う。それを、ネガティブは良くないとかそういうジャッジをせず、すべてOKした上でちゃんと感じる。

出来事のことも、良い悪い、正しい正しくないでジャッジするのではなく、あるがままを、そっか、と受け入れる。その上で快や不快、好き嫌いという感覚を大切にする。




311という一連の出来事は、私に、人間として生きる根元的な喜びを気づかせてくれた。思い出させてくれた。


あの時感じた、人が人を助ける深い優しさ、祈る慈愛、向き合い受け入れる力強さ。それは、世界中で起きて。色んな人間の強烈な命の輝きが眩しくて、切なくて、嬉しくて、人間の凄さを毎日、ひしひしと感じていた。
どんなに悲しくても、不安でも、それ以上に、だからこそ、強烈に人のきらめきと世界に満ちている愛を感じた。
傷ついたひとに寄り添う人の優しさに、いちいち感動した。
この困難な状況を何とか乗り越えようと支えあい、勇気や覚悟をもって動くひとの強さをみた。

大変なことかもしれない。悲劇かもしれない。未曾有の事態かもしれない。
それでも、なんて人間は素晴らしくて、なんてこの世界は素晴らしいんだろう。





この尊さに気づける心を、絶対に忘れない。