SOUPiFUL

peaceful・soup

フレーズ、メモ

調教師
LOVE & PEACE

自分を上手に否定する 疑う(思考の部分否定)

「忘れる」「慣れる」「飽きる」というのは非常にユニークな現象
無限の可能性の中で、人が今の形で生きていることの必然性?偶然性? 現在の人の世界観を世界観たらしめる要素 これがないとしたらどう生きるのだろうか

世の合理主義者たちに問いたい。

悟りたい人と悟りたくない人

思考実験マニア。真理マニア。

人生に対する読解力

自分が幸せであることが人生の至上命題である。(ことの証明。)

感情原理主義になりがち。油断すると思考にのっとられる

スピーカーとしてのギアチェンジ

哲学するのが好きなのは間違いない。頭のなかで、限界まで突き詰めて削ぎ落としていこうとする作業。
でもってその気付きをいかに端的な、洗練された言葉で表すかっていう作業も同じように好き。
「青い好き」

グッと来ちゃうもの。



私は 人間的な性質の中で、intelligenceとhumorというものに、絶対的な憧れを感じている。

(日本語の知性とか叡知とかいうより、私の中のニュアンスにより近いので英単語を使います)



intelligenceは、もって生まれた人の資質の一部でもあるし、生きていくなかで深みを増していくものでもあると思う。


で、intelligenceというのは、人が内から沸き上がるもの
ーーーたとえばとどまらぬ好奇心や、肉体的な欲求や、精神的な欲求など、人間に生物としてプログラムされているパッションーーー
に従い、そこで得た感覚(感情や体感)の、実地から得た一連の経験の蓄積によりもたらされる、深い洞察力や推察力のことであると思う。

その力が深まるほどに、世界を捉える眼は、ニュートラルな視点になっていく。


とはいっても、我々人間は感情・感覚の生き物。
ニュートラルだけでは生きていけない。

やはり、生きていれば様々な感情のなかで、ときにもみくちゃになる。
それはそれで、いいのだ。存分に味わえばそれでいいのだ。

ただ、その感情が起きて常に揺れている層と、ニュートラルな層が深いところに確かにあるという状態が、私にとっては悟っている状態で。


そのニュートラルな層に深みをもたらすのが、intelligenceであると思う。






そして、humor。
これは、intelligenceを内包する、遊びの部分。

humorがhumorたるには、intelligenceによるニュートラルな視点は必要条件なのである。


人が何かに面白さを感じることと、善悪とか正誤の二極性の価値観とは同じ層には存在することができないのである。

二極性をメタ的に捉えたり(そのメタ視点自体がメタな二極性でもある場合も)、二極性とは別質の価値観の位置にあるときに、始めて面白いと思うスペースが生まれるからである。

要は、対象と同じ土俵に立っているうちは、絶対に面白いとは思えないのである。

面白いという感覚は、余裕・余白・スペースから生まれるものであるから。



で、私は、人生を面白がって、楽しく生きたいのである。

軽んじたり、バカにするのではない。

寧ろ、深いintelligenceを持ち合わせていればいるほど、自ずとすべてに対する畏敬の念や、まっすぐなプライドが生まれるはずだ。


改めて私にとっての悟りとは、
深い層では常に愛を感じ、表層で沸き上がる感情はただ感じる、という軽やかな状態である。


その状態に近づく力。人間力。というものがまさに、
intelligence と humor に凝縮されていると。私は考えているのである。


だからこそ、その性質に絶対に憧れるし、他人のなかにそれを見出だすと、めちゃくちゃグッと来ちゃうのである。



そういう意味で私は、

宇多田ヒカルさんや、Crazy Ken Bandや、Pizzicato Fiveの世界観に、intelligenceとhumorを見出だし、グッと来まくっているのであると思う。

あ、あと、よしもとばななさん。



はい、長くなりましたが、彼らと彼らの産み出すものが好きですってことです。

寂しさというものは悪か


あまりにも強烈で、自分自身が手に負えないと感じるほどの寂しさと不安。


私は長年この身体の奥に染み込んだ「強烈な寂しさ」を、持て余してきた。



母親との関係で深く傷ついた事以外は、私の人生での人間関係はのどかで優しくて幸せであったと感じる。



にもかかわらず、私は時に発作的に強烈な寂しさに包まれて、真っ暗な世界に沈み込むようなその感覚に支配されて、目の前にある安心や愛情が全く見えなくなってしまう。

全世界から否定され、この世界に自分が認められ安心できる居場所はどこにもない。という気持ちになってしまう。


これは、私にとって唯一の肉親である母に優しくしてもらえなかった・受け入れてもらえなかったという、古いけれど深く刻まれてしまった記憶が、何かのきっかけで呼び覚まされるからだと思う。




「お前なんて生まれてこなければよかった」
ということを何度も何度も、二人きりの世界で、言われ続けてきた。

知らないうちに私は自分の事を、
「私がただ生きているのはいけないことなんだ。」
と思うようになり、
「何とかして、生きていてもいい理由を作らなきゃ。」
と考えるようになった。

はじめは
「母親の言うことを聞いて、母親を喜ばせれば、なんとか生きることが許されるのだ」
と考え、母親の言うことを聞くように頑張った。


しかしだんだん無理が出て来て、要求に応えられなくなると、また
「お前なんて生まれてこなければよかった」
といわれ、

「こんな私はやっぱり生きてちゃいけないんだ」
と自分の存在をそのたびに否定して、そんなことを何度も繰り返すうちに、知らずに傷がどんどん深まっていった。


その自己否定感はどんどん膨れ上がり、母親との関係のなかだけでなく、外の世界でも常に感じるようになってしまった。

少し誰かに何かを注意されれば、
「お前なんて生まれてこなければよかった」
と言われているような気がして、一気に萎縮して自分を責めた。




その一種の思い込みというか、トラウマからくる発作は、親元から離れてから徐々に落ち着いてきたように思う。

色んな人とかかわり合うなかで、私の考えが塗り替えられ、この不安感は気のせいだ、と頭で理解するところまでは、つい最近、やっと来れた。



でも、まだまだ奥深いところにこびりついてしまってなかなか剥がれない、存在することへの不安。



これはもう、私にとって人生のラスボスみたいなものかもしれない。
この感覚を払拭しないことには、どんな人と関わろうが、必ずまた発作が出てしまう。
発作に苦しめられるのはもう嫌だ。


ただし、このラスボスを倒して新しいステージに行くことは、誰でもなく、自分自身にしか出来ないこと。


ラスボスを倒す不安や心細さを、誰かと共有することはできても、ラスボス自体は自分以外の誰かが倒すことはできない。


それはとても重い事実だけど、だからこそ、きっと何とかなる。とも思う。





そして、もしそのこびりつきが、存在することへの不安が、剥がれたとき。

そのあとの人生では一切寂しさや不安を感じなくなるのか。といったら、きっと、

嬉しい、楽しい、悲しい、ムカつく、という色んな感情と一緒に、たくさん感じていくのだと思う。





どんなに人生を振り回されても、どんなに苦しくても、さまざまな表情であらわれる「感情」は悪でない。


人間が、人間としてこの世を味わうための、「味わい」そのものであるから。

感情を味わうことが人生であり、「幸せ」そのものであるから。

How to be 幸せ

今、これを読んでる人で。

愛されたくない人いますか?
認められたくない人いますか?
安心したくない人いますか?
満たされたくない人いますか?
気持ちよくなりたくない人いますか?


これ、もう、人間として生まれたら抗えない欲求です。
これ、まず認めないと次に進めません。
意地はってる、拗ねてる、見ないふりしてる、場合じゃないです。


で、愛される・認められる・安心する・満たされる・気持ちよくなるなどの感覚をまるっと、ここでは「幸せ」と呼びましょう。


今、あなたが頑張ってやっていること、やり遂げようとしてること。それは全てこの「幸せ」を得るためというところに行き着きます。

形の先の、形のないものに向かって努力してます。


はい。そしてこの「幸せ」という目的地に辿り着くための「努力」。
向ける方向、やるべきこと間違ってます。多くの人が。だから、空回りして疲れます。

私も、ながらく間違えてました。
でも、最近真理に気づきました。





幸せになるための正しい努力の方向。そして方法。究極にシンプルです。本当は簡単です。
でも、今までの常識の真逆をいってるので、まずは常識を疑うことが必要ですね。

順番に説明します。



まず、「幸せ」になろう、なりたいという気持ち。
これは、そのままでいいです。むしろこの情熱はとっても大事です。
これがないと無気力の廃人です。

問題は、どうやってその気持ちを満たそうとしているか、の「どうやって」のところです。



例えを挙げると、あなたには「愛されたい」という欲求があるとします。
この欲求を満たそうとしたとき、あなたはまず何処に目を向け(目的地を定め)、どんなことをしようとしますか?


それがもし、例えば好きな人だったり親だったりの、自分の「外」の世界の誰かからの愛を求め、「外」の世界からの声や要求に合わせて努力することで、愛を獲得しようとしているのであれば、それは空回りパターンです。



でもね、この「愛されたい」って心の叫び、自覚するところまで来たのなら、あとはもう少しです。

じゃあ、それは、「誰から」愛されたいってことなの?っていう部分が全ての答えです。

誰もが信じて疑わずにいた、常識と真逆の部分です。


これは、《自分以外の外の世界》から「愛されたいん」じゃなくて、《自分が、自分自身》から「愛されたい」んです。本当は。


わーーーーー。マジっすか!!!!!

びっくりじゃないですか?

でも、本当です。



今まで自分が、外の世界に向かって求めていたものは、本当は、自分が自分自身に、求めていたものです。

そうすると、物事はとってもシンプルでクリアになってきませんか?



《自分から》愛されたい。
《自分から》認められたい。……


じゃあ、今この瞬間から、自分を愛してあげてください。
認めてあげてください。
抱き締めてあげてください。

怖かったよね、頑張ってきたよね、否定してきてごめんね、大事にしてこなくてごめんね、って。
そうしたら、自然と、自分にありがとうって思えます。
自分のことを愛す一歩を踏み出せるはずです。




結局、幸せになるためには、自分の内側に目を向け、自分に集中し、心の中から沸き上がる大小様々な欲求を自覚し、認め、それを毎瞬毎瞬自分自身で真剣に叶えていく。そしてその欲求を叶えるためにはいかなるときも、自分最優先!!を貫くってことです。

そして、その愚直な努力のひたすらな積み重ねでしかないんです。

しかし、今までそうやって生きてこなかった人にとっては(私です)、自分の心の声(欲求)に従いそれを現実化するために自分最優先で行動する。というのは、死ぬほど勇気がいることでしょう。



でね、だいたい自分最優先初心者は、何をするにつけても
「こんなことして、嫌われたらどうしよう!」
っていう一言に集約されると思いますが、こういう恐怖心が沸いてきます。


これに関しては、私が自分最優先を実践していく上で実際に体感したことなので、

はい、大丈夫です。嫌われません。と、断言できます。

むしろ、自分自身の幸せのためにまっすぐ生きている素晴らしい人間を嫌う人がいるなら、その程度の人からは早く嫌われて縁が切れたほうが、スッキリしていいじゃないですか。

そして、自分が自分を愛せたら、自ずと、その状態のあなたを愛してくれる人がどんどん増えます。
安心してください。




まぁ、この自分最優先をひたすら実践して、恐怖心も薄らいで自然にできるようになるのが、「自分と両想い」の、満たされた理想的な状態です。
人生が、軽やかになります。

ここまで来れば、あとはひたすら自分の魂を燃やして、遊びきるだけです。






目に映る外の世界は、全て自分の内面の投影です。

心が先で、現実が後。と言ったりもできます。


これは、自己啓発やスピリチュアル的なものをかじっている人ならよく目にする概念だと思います。
頭でわかってる人も多いのかもしれないです。


で、今の自分の状態を、外の世界のせいにすることはちょーー簡単です。
今の自分の状態は、「全て」自分が作ってる。って認めるの、ちょーーーー恐いです。


でもね、その事実を認めないと結局は同じような問題とか苦しみとかを繰り返し続ける、重苦しい人生のままなんです。
それが好きで、望んでいる人生ならば、もちろんそのままでいいんです。


で、その事実をハラに落とすためには、信じられないと思いながらも、「もしかしたらそういうことなのかもしれない」と、一度自分がその前提で行動・実践してみて、体感しないことには一生わかりません。




なので、今、人生に対して「何か違う」「こうじゃない」「苦しい」という違和感がある人は、本当に、さっさと自分最優先、やってみて。今この瞬間から。
恐くても。

ここまで読んだのなら、

もうこれから先の幸せな人生に必要なのは、自分を幸せにする責任を全て自分が引き受ける、と決める勇気だけです。

モヤモヤの整理。


「計画的に生きる」ってなんだろう。


苦労が少ないように、先読みして生きる。
困らないように、不測の事態に備えておく。

こんなイメージ。



うんうん、確かに、生きるためには大事そうなことだ。
私も「ちゃんとして」「計画的に」生きる、「人に迷惑をかけない」「立派な」人間になろうとがんばってきた。




でも、そもそも人生って、何が起きるか分からなくて、起きる全てのことは本来不測の事態じゃん。
それを、人間様のちっぽけな脳みそで完璧に予測してリスクヘッジして…なんてコントロールできるようなもんじゃなし。

たまたま、予想してた通りになることはあっても。


あ、このまま待っとけば信号が青に変わって渡れるな。
…あ、変わった。渡ろう。

みたいな。



でも、その当たり前に感じるその事すらも、もしかしたら車が信号機に急に突っ込んで信号が変わらないかもしれないし、青になって道を渡ろうとしたら人に道を尋ねられるかもしれないし。

本当は一瞬先の事すら何が起きるか分からない。
何が起きてもおかしくない。


その当たり前の事実を忘れて生きる人間は傲慢だ。



人生の不常性を見つめて、絶望するのではなく、受け入れなければ、出来事に振り回されて消耗することの繰り返しだろう。
力強く人生を生きることと、不常性を受け入れることとはイコールだ。


そういうことに最近思い至ったので、今まで自分が握りしめていた、「計画的で理性的で立派な人生」というものを手放した。
そんな人生は幻想だと思った。


人間は身体をもった動物です。
当たり前に 「欲」がある。


無欲になろうと悟りの道に入ることも、理性で欲をコントロールしようとすることも、以前は私も頑張っていたことがあったけど、つくづくナンセンスなことだと思う。
いのちへの冒涜とさえ思う。



そうして抑圧されたピュアな欲求は、ねじれて、こじれて、人生を辛く苦しいものに変えてしまう。



見つめるのが恐い、認めるのが恐い、その物事の中にこそ真実があり、その真実を正面きって見つめ受け入れた先にこそ、恐怖や萎縮から解放された人生が開かれるのだと思う。


思うがままに生きても、結局人間は優しくて素晴らしい生き物なのだし。

映画インターステラーについて その2

総論みたいなものは言い切ってすっきりしたので、物語の部分以外の感想文を。




とにかく、音楽がとてもよかった。

特にメインテーマが印象的で、ある種の悲壮感がある。
どのメロディも重厚でドラマチックだが、本当に効果的なところで流されるので、より物語に引き込まれる。

演技やストーリーの薄さを過剰な音楽で誤魔化すような安っぽい演出、などということはなかった。
それはもちろん、役者さんや脚本が優れており土台がしっかりしているからこその相乗効果であろう。


役者さんといえば、主人公クーパー役のマシューマコノヒー。
初見のときは、変にギラギラした感じに映り、ちょっとラリっているみたいで怖く感じた…(笑)。
途中からその違和感は消えるのだが、やたら目が据わっているというか。
独特の強さも感じるが、スタンガンか何かで気絶させられ目覚めた後の尋問シーンなんかは、完全にきまってました。

少女時代のマーフ役の女の子は、気が強く聡明ながらも幼い雰囲気が残っていて、可愛かった(*^_^*)
あんなにキュートなおりこうさんなら、そりゃクーパーも親バカにもなるし地球ごと救いたくなっちゃうだろうな、といったところ。

しかし、お兄さん(名前すら思い出せない)に関しては、親子の絆や愛情が描かれるシーンもあるけど、あまりにも父クーパーと妹マーフの絆の方がフィーチャーされているから、同じ親の子であるのに少し可愛そうに思ってしまった…(笑)

まぁ、彼にしかない、物語を担う大事ないち装置としての役割があるのだな。
そして、父親と息子、父親と娘のそれぞれの絆の形があって、その描かれ方に、典型とも言えるような普遍的なものを感じた。


ブランド博士役のアンハサウェイは、プリプリの可愛らしいイメージが強かったので、ベリーショートで知的な役というのは はじめ?と思ったが、映画を見たら、納得であった。
理論の先に、「愛」を直感した女性科学者。その役にぴったりの強さと知性と若さを感じた。


それからマン博士。彼のファーストネームは劇中では出てこないが、Hughと言うらしい。Hugh Mannである。人類の種の保存に盲進した彼の名がヒューマンというのが何とも…。
カメオ出演扱いのマットデイモンも、名の始めと最後を合わせてもマン、だなぁとオヤジギャグレベルのこともただの偶然ではあるまいと勘ぐってしまうのである。

残念ではあったが、ドイル役の黒人さんも、少ないセリフから温厚さが伝わる雰囲気で、好きになった。

総じて、それぞれの役者さんの演技が良く、良い味を出していた。

人間のキャラクターではないが、スーパーAI?のTARSやCASEの魅力も素晴らしかった。

2001年宇宙の旅の、モノリスのようでもありHALのようでもあり。しかし、海軍仕込み風の陽気なジョークを言ったり、トランスフォームして独特な鋭敏か動きを見せたりと、一見無機質だが、非常にハートウォーミングなやつである。
そしてこの映画の微少で希少な笑いの部分を、人ではなくこのロボットであるTARSが一手に担っていたと言っても過言ではない。

なので、映画を見終えた頃には、うっかり一番好きなキャラクターになっちゃったりする。
そしてきっと、クールなCASE派かお茶目なTARS派か別れるところであろう。
私はもちろん、ベタだがTARS萌えである。
TARSにお姫さま抱っこされたい。

f:id:ssssparkle:20160313191028j:plain




今までのクリストファーノーラン監督の映画は、嫌いではないが、堅く重いイメージがある。
ダークナイトなんかは正直、私には暗すぎた。

しかしその堅さが今回、作品のテーマや舞台と、非常に絶妙なハーモーニーを奏でたと思う。
そして作品全体の重さに比例して見終えた時の、超特大のカタルシスを生む。


何度見てもきっと気づくことがたくさんあるだろう。

またその時には追記していこうと思う。

映画インターステラーを観て思うこと

インターステラーを観た。


以前「個人的に最も面白い映画」とひとに紹介され、どんな映画かよく分からないまま観た。
が、その時も、ポスターやあらすじ紹介から予想していたものとはもう次元が違った、すごい!映画で、とにかく衝撃を受けた。


すごい!ポイントは数多あり、なかなかすべてを一度に語るのは難しい。
しかしそんな「インターステラー」の魅力や難しい理論の解説などを、分かりやすくかつ濃密に記した素晴らしい記事はすでにたくさんある。


ただ、たとい重複があったとしても改めて自分自身のなかの膨大な思考や感覚の旅の軌跡をアウトプットしたい、と思ったので、自分が飽きるまで、つらつらと大小感じたこと気ままに書いていこうと思う。





まず、この映画はSF映画に分類されるが、そのSF具合が、かなりかなり、ハードコアである。

もちろん大前提が娯楽としての映画なので、純粋な物理学のシミュレーション映像というのとは性格も目的も異なるが、基本的に、かなりシビアな物理学的な計算や理論が通底している上での映像とストーリーだということ。





私は知的好奇心の行き着く先、宇宙論が大好きなので(数字とか計算とかは超・苦手だが)、この辺のコリにコリまくった演出に、単純にしびれた。

今まで本などであくまで理論的に、二次元的に表現されていた事象が、映画というかたちで、まさに疑似体験の域で感じられることへの興奮。


ワームホール」や「ブラックホール」、「事象の地平線」などなど、在ると知っていても地球での日常生活のなかではうまく想像すらできない、摩訶不思議なものを、この超ゴリゴリのSF映画は、リアリティをもった映像として、目の前に見せてくれる。すごい!

そういうのが好きな人は、本当に、ドラマなどはすっ飛ばして映像だけでもじゅうぶんに楽しめるはずである。


しかし!それでは正直、この映画を観たことにはならない。というか、宇宙に惹かれ、抗えない探究心があればあるほど、これはただのSFという枠に収まるものではない、と気づくのである。




この映画を観た人が抱くであろう物語の印象は、おそらく多くの人が、「父と娘や人と人の絆・愛の物語」「人類の果てなき旅」「ハードコアなSF的描写」などなど、こんな感じであろうと思うが、
人によって人間ドラマと捉えるか、SFとしての完成度を楽しむか、どちらかに片寄って別れるところだろう。
文系的か、理系的か、というところである。


前者は宇宙論などにはあまり興味がないというか、だからこそ知識もなく、途中からワケわからん状態になりそうだ。結果、「父クーパーと娘マーフの愛の物語」"だけ"しかテーマを感じられない。

後者はSF映画を楽しむ知識はあるが、作中の「愛」とかそういうシーンには胡散臭さを感じ、従来の理論理屈で説明できる描写にしか萌えることができない。



私は、もちろんそれぞれがこの作品の大きな魅力であると思う。間違いない。
しかし、それらは一見異なる性質であり、それぞれが独立した別のテーマであるようだが、本当は、全くどこにも区切りや線引きのない、全く同じものであり、今まで二極であったものが統合されていく映画なのだ。

そこが、すごいところなのだ。



目に見えず、確認できない曖昧な「愛」の世界。

目に見え、確認できる、明確な「科学や物理学」の世界。

これらは、今までながらく相反する、対極とも呼べる構図をとってきた。




劇中の <人類移住のための星の候補がふたつ有るが、船の燃料の問題で、どちらか一つに決め、探査に向かわなければならない> というシーン。


マン博士の星と、エドマンズの星。
どちらからも信号が来ている。距離や見込みの度合いなどで簡単に決められない。

生物学者のアメリアはそこで、エドマンズの星を推す。

「愛は人が発明したものではない。しかし観測可能な力であり、まだ解明されていないだけで、私たちにも感知できる。時間も空間も越える。」

彼女は、従来の理論や理屈ではなく、「愛」という感覚から、エドマンズのいる星に引き寄せられ、行きたいと言う。

クーパーはそれを「科学的・論理的でない」と却下し、マン博士の星に行くことに決まる。


しかし、一行がマン博士の星に着いた後に、結局そこは人類移住には全く適さない星であることがわかり、挙げ句にはマン博士の暴走により甚大な被害を人的・物資的に被ってしまう。

そしてラストシーンで明らかにされるのだが、
アメリアの言ったエドマンズの星は、不毛の地でこそあれ、ヘルメットを外しても呼吸できる大気のある星であったのだ。



クーパーはこの物語の終盤、ブラックホールの中に入ることになり、そして《特異点》にたどり着く。
一度は「愛」の力について否定したクーパーだが、そのとき、彼はすべてを悟る。


時空を越える唯一の「重力」

アメリアが言った時空を超越する「愛」

全く同じものであると。



今まで人類は科学という世界観の中には、愛というものを入れてこなかった。しかし、科学の世界はそれでもどんどんと進化、深化していき、ある限界点とも呼べる場所に行き着く。


無限大の密度(重力)をもち、同時に全く質量のない《特異点


この特異点の謎が解けない限り、完璧な理論の完成は叶わない。


映画の中で、科学の世界では「特異点」と呼ばれるその点に、クーパーはたどり着く。

そこには、無限に広がる愛娘マーフの部屋。時間と空間が無限に展開される場。


そこで彼は、「重力」というもので時空を越えたメッセージをマーフに送り、それをキャッチした彼女が重力の謎を解き、地球の人々を救うのである。





しつこいようだが、もう分かるであろう。

この映画は、ものすごく科学を突き詰めたからこそ、対局にあるとされてきた愛というものを、同時に解き明かしたのである。


言葉にしてしまえば、一言なのである。



すべては愛である。




その壮大な証明を"科学的に"してくれた、映画なのである。

311

5年前私が感じていた、当時は 只中で感じ入る余裕がなかった、でも確実に心に沸き起こっていた強烈な感覚。
ふとよみがえってきた。涙が止まらなくなった。



あの時私は、不安や悲しみでいっぱいだった。
でも、それ以上にすごくすごく大きな、愛の循環を体感していて、心が震えていた。


                                                                                                                              • -


今さっきまでそこにあった家、道路、人。
今までもこれからもそこにあり続けるだろうと疑わずにいたものが、いとも呆気なく、一瞬でそこからなくなってしまう。
これを、津波の映像をリアルタイムで見たときに、感情より先に、知った。悟った。
人が思っている未来や過去は幻想、かげろうみたいなものなのだ。それはいいことでも悪いことでもない、淡々として厳粛な事実なのだ、と。

「今」しか存在しない。

かげろうのような過去や未来にとらわれて、「今」という、唯一で尊い一瞬をもう絶対に見失いたくない。と、強烈に感じた。
「今」というものを最大限に感じて尊んで、生きよう。って、誓った。

当たり前、という感覚はこの「今」という瞬間の尊さに気づくことを鈍らせる。
しかし私の中の当たり前が、大地震が起きて、一瞬で当たり前ではなくなった。それはとてもショッキングで悲しくてやるせなくて、と同時に、「今」という瞬間への気付きと、それに伴う愛をもたらしてくれた。

「今」何か特別なことが起きるから「今」が尊いわけではない。
「今」何かがあろうがなかろうが、楽しかろうが悲しかろうが、どんな「今」だろうが、それはもうその瞬間にしかなくて、唯一絶対の「今」だから、尊い。
「今」の"状態・状況"で「今」の価値や尊さが上下するわけではく、絶対的な尊さであり価値。
人間の考える正しいとか誤ってるとか優れてるとか優れてないとかそんなのでジャッジしていいような、そんなチンケなものじゃない。
だから、すべての「今」を受け入れて、すべての「今」を私として、全身で生きよう。と誓った。


その誓いは、私なりの追悼であったし、祈りであったし、応援であったし、感謝であったんだと思う。

悲しみが深かったからこそ、この素晴らしい誓いを立てられたんだと思う。

「今」を受け入れ「今」を全身でいきる。


そして「今」を受け入れることは、私が私自身を、世界を、宇宙を、受け入れるということだ。





人間は生まれて死ぬまで、今という瞬間の繰り返し。
その、ものすごくシンプルで、でもとても深淵なことに触れて、私は心が、というよりは魂が、とても喜んでいると感じた。


地震そのものは、プレートがものすごく大きく揺れ動く、という、淡々とした事実であり出来事。
それを悲劇とか、天罰とか、そうやってジャッジして、何か物語や性質を付加するのは人間の思考。

何かが起きて、悲しい気持ちになる。落ち込む。喜ぶ。楽しい気持ちになる。
この「感情」は、人間らしさであり素晴らしさであり尊いものだと思う。それを、ネガティブは良くないとかそういうジャッジをせず、すべてOKした上でちゃんと感じる。

出来事のことも、良い悪い、正しい正しくないでジャッジするのではなく、あるがままを、そっか、と受け入れる。その上で快や不快、好き嫌いという感覚を大切にする。




311という一連の出来事は、私に、人間として生きる根元的な喜びを気づかせてくれた。思い出させてくれた。


あの時感じた、人が人を助ける深い優しさ、祈る慈愛、向き合い受け入れる力強さ。それは、世界中で起きて。色んな人間の強烈な命の輝きが眩しくて、切なくて、嬉しくて、人間の凄さを毎日、ひしひしと感じていた。
どんなに悲しくても、不安でも、それ以上に、だからこそ、強烈に人のきらめきと世界に満ちている愛を感じた。
傷ついたひとに寄り添う人の優しさに、いちいち感動した。
この困難な状況を何とか乗り越えようと支えあい、勇気や覚悟をもって動くひとの強さをみた。

大変なことかもしれない。悲劇かもしれない。未曾有の事態かもしれない。
それでも、なんて人間は素晴らしくて、なんてこの世界は素晴らしいんだろう。





この尊さに気づける心を、絶対に忘れない。