テラサーガ Ⅲ
さて、私自身が、私自身を振り返ることで、何か発見があるかもしれないということで始めた、テラサーガ。
◆テラサーガ Ⅰ
http://ssssparkle.hatenablog.com/entry/2016/05/01/225125
◆テラサーガ Ⅱ
http://ssssparkle.hatenablog.com/entry/2016/05/07/085835
これから思春期以降、トラウマ形成期に入ります。
私の中では自分の精神的なブロックをたくさん抱え込んだり、自己否定するきっかけが増えた時期で、
要は、かなりこじれている時期なので、それを紐解くため、かなり細かい描写が多くなると思います。
読み物というより膨大なメモという感じです。
超絶、長くなると思われます。
暇だったり、気が向いたら読んでね。
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小学校中学年頃に、おじいちゃんが階段から落ちて亡くなる。
同時期に海外にいた叔母も、バスで移動中に崖から落ちて首を痛める。
この時、不思議なタイミングの一致を感じた。
叔母も母も「アタック」があったからということ言っており、
何となく超常的な力が働いたのかもしれないと私も感じるが、そういうものをリアルに感知できない自分に劣等感を感じる。
因みに、母は家族の誰にも頑なな態度で、特におじいちゃんとは最悪の仲だったのと、おじいちゃんのアル中の症状が酷くなっていたのとで、
家族皆、悲しいのと、ホッとしたのとがない交ぜだったと思う。
「目に見えない世界や力はあるに違いなく、それを感知しないと一人前じゃない。立派じゃない。真理に辿り着けない。だからこそ感知したいのに、できない自分はダメなんだ」
母や叔母と自分を比べることで、謎の劣等感を抱えたのがこの頃。
※母や叔母と色んな話をするなかで、スピリチュアルな世界観や知識などが小さい頃から自然と蓄えられた。ある意味スピリチュアル英才教育。
ただ知識もあるし間違いないと感じるからこそ、いまいちつかめていない自分に嫌気がさした。
中学校にあがって転校するまで、母とはほぼ一緒にいて、勉強を監視されたり、出掛けたり、色んな話をした。
母親の厳しい門限やら何やらで、友達と遊んだり、好きなことを好きなだけしたりが、できなかった。
勉強も母親が決めたものをひたすら やらされて。
そんな中、言いつけを守れず猛烈に存在を否定されたりして深く傷つく反面、宇宙のことや人生について、真理を求めてかなりディープに語っていたので、私にとって母は、
母というより、唯一無二で、魂を分けあってしまったような感覚の存在であった。
猛烈に喧嘩をすることもあるけど、それ以外の時は、一番心を開ける大親友のような感じだ。
そして大好きだからこそ、その人から「生まれてこなきゃよかった」とか「死ぬならさっさと死ねば良い」とか言われて、うまく思い出せないくらい張り裂ける悲しさだった。
じゃあ何で生んだのか、勝手だ、と言えば、
「生みたくて生んだんじゃない」「お前を見てると別れた男を思い出してムカつくんだ」と返され。
自分の存在意義や価値が根底からガラガラと崩れるような感覚で。
この頃は怒りより、悲しみや罪悪感が強かった。
何度も死にたい気持ちになった。でも、自殺する勇気もなかった。
生きるのも死ぬのも辛い。
この時の猛烈な辛さが「私は何で生きているんだろう。」という自分への問いかけへの、情熱に繋がった。情熱というよりは、執念だけど。
ただ、当時はそう思えなかったけど、ここで母親にぶつからずに全部溜め込んでいたら、死んでいたと思う。
死ぬ思いではあったけど死ななかったのは、溜め込まなかったから。
そして、おばあちゃんや叔母と、母以外の家族がいたことで、なんとかバランスをとっていた。
(おばあちゃんも叔母も私に味方してくれていたから。ただあまりにも私と母の喧嘩が絶えず辟易もしていた。)
だから、家の中では凄惨な状態でも、学校などでは平和に楽しく過ごせていた。
私が中学二年の時に、私に一番優しくしてくれたおばあちゃんが亡くなった。
家族は私と母と叔母の三人になった。
遺産問題で母が猛烈にゴネる。
叔母と母はもともとあまり仲が良くないが、ここで完全に仲違いになる。
遺産に関しては私は傍観者だが、毎日喧嘩が絶えず、ますます家が嫌いになる。
そしてほぼ絶縁状態で、母と私は千葉に越す。
中学三年に上がるタイミングで千葉に越した私と母。
新しい街を母も私も気に入った。
新しい学校でも、特に問題なく過ごした。
しかし、親子二人きりの生活で、喧嘩をすると止めに入ったり、庇ってくれる人間がいなくなり、エスカレートした。
私も、以前なら言いくるめられたりしていたことにも、反論できるくらいの言語化能力もついてきて、
親に対しての罪悪感よりも、理不尽さに怒るようになってきた。
ただ、少しのんびりしたいだけなのに。
ただ、ゆっくり家で安心して過ごしたいだけなのに。
それが叶わないことが、とんでもなく辛かった。
いつも行動を管理、監視されることが苦しかった。
言いつけを守らなければ、家を追い出されることも度々あった。
友達に助けてもらったり、家の外で朝まで凍えながら、家にいれてくれと言い続けたこともあった。
「大事な人に棄てられる恐怖感」
はここで刷り込まれた。
この頃は慢性的に傷ついて疲れていたから、色んなことのやる気をなくした。
友達に会えば気持ちは和らぐし楽しかったけど、家に帰ればまた地獄だ。
毎日を心穏やかに過ごしたい一心だった。
親の言いつけを守れば良いのかもしれないが、私にとっては膨大な勉強の課題をこなす 気力も体力もなかった。
せめてもの 友達との楽しく心安らぐ時間も、門限やら何やらで あまりなく、家に帰る気がしない私は門限を破ったりして、また締め出されたりと、
毎日が、すべてが悪循環だった。
とにかく母親から離れたいという気持ちが、高まった。
でも、絶縁状態な親戚などに相談したりはできないと思ったし、分かって貰えないだろうと感じて、一人で何とかしようと抱え込んだ。
この歳では仕事はできないけど、売春でもすれば寝るところとかお金とか、何とかなるかなとか、何度も考えた。
でも、やっぱり恐くて、猛烈にしんどいけど母親の元で暮らすことと努力を、選び続けた。
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ここまで書いて、あーー、やっぱりあの時は本当に辛かったんだな、と思い出した。
母親が好きだけど、受け入れて貰えない。
安心して過ごす場所が欲しいけど、叶わない。
それならば母親から離れたいと思うも、
母親から離れて生きる術を知らない。
どうしていいかわからない、どうしようもない、辛さだったね。
本当に、よく死なずに耐えたと思う。
よく頑張った、わたし。
外側に目立つ形ではグレなかったけど、心の中がめちゃくちゃになっちゃったね。
隣にあのときの私がいたら、ハグをしてあげたいよ。
はーーー、ほんと、よく耐えた。
それだけで、すごい。
そして、まだまだ続きます。長い。(笑)