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peaceful・soup

テラサーガ Ⅱ

皆さまお待ちかね、テラサーガの第二話です。



前回はおばあちゃんがキーパーソンでした。

今回も長い長い、家族、そしてロリテラのお話です。

色んな伏線やエッセンスが、ばらまかれる頃でした。



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私は、バリ島で生まれた。


父がバリの人で、日本人の母が30歳のときに生んだ子だ。

私が生まれて間もなく、二人は離婚して、母は日本の実家に帰ってきた。



そこから、
私と、母と、叔母と、おばあちゃんとおじいちゃんの、五人家族での生活が始まった。


母子家庭というと可哀想がられることがあるが、
こんな風に母以外の家族がいた期間が長かったこと、
父親の記憶がそもそも無いことから、
母と子二人きりという寂しさを感じたことは、あまりなかった。



そして、この家族。

かなりユニークだったと思う。

おじいちゃんとおばあちゃんは、おじいちゃんがアル中で暴れることがあること以外は、まぁ、「フツーの人」であった。



問題は、母と、叔母。


母も叔母も、当時スピリチュアルの走りというか、ニューエイジなものにかなり傾倒している人間だった。


叔母は、まだ日本でスピリチュアルというものが出始めの、黎明期に、それを仕事にしていた人間だった。
ヒーラーだか、カウンセラーだか。


当時はけっこうな売れっ子だったようだ。

私が物心ついた頃には、いつもセッションや講義やリトリートなど、仕事で忙しくしていた。


そして、そんな叔母の部屋には、綺麗なクリスタルや、不思議な本、何に使うか分からない道具らしきもの、ヒーリングミュージックなるものが流れていたり…ナドナド、普段目にしない、目新しい世界観のものがたくさんあったので、よく遊びにいった。


それらが何なのかはよく分からないけど、心地よかったし、面白く感じた。興味をそそられた。


母は母で、ほぼ仕事はしておらず、いつも色んな本を熱心に読んでいたし、何かを探求していた。
世間の常識やしきたりに、猛烈に反発している人だった。


そんな、世間の常識からずれちゃっている、しかも強烈に、な人間がごく近くに二人もいたもんだから、当然のごとく私も影響を受けた。


まず、常識を疑う感覚が生まれた。

自分の現状の信念を、柔軟に変えていくセンスもあったし、無限に夢を見られたので、私の世界観はだんだん浮世離れしていった。

天使とか魔法とか、目に見えない超常的な力に強く憧れだした。



小学校に上がるまでは、そんな最高に夢見がちな私も、とっても楽しく過ごせていた。

家族も、大声で怒鳴りあう喧嘩もあったけど、私は大好きな母と仲良しだったし、特に問題はなかった。

母はいつも私に、テラは天才だと言って誉めて可愛がってくれたし、大好きだといつも言ってくれていたし、

そして私自身、自分の素晴らしさや、力を信じて疑わなかったし、
生まれながらの姫気質も相まって、とにかくモテモテだったらしい。
(らしい、というのは大きくなって周りから聞いたことだったので。)




最近、ふとこの幼少期のことを思い出すことが増えたのだが、

あの時にすでに私は「メス」だったとおもう。

センシュアルな感覚を理解したし、エロへの探求心もはんぱなかったし、

何より、

「オトコは、私が強く思いさえすれば何とでもなる」

みたいなことを思って生きていたし、実際にそうだったのだ。自分は、本気で魔法を使えると思っていた。


テラ…恐ろしい子!!!





ところが、小学校に上がったあとは、だんだん、その魔法の世界が薄らぎ、
「常識」とか「社会通念」というものを吸収していくのである。


この頃から母は、だんだん無条件に私を可愛がらなくなってきた。

勉強が出来ること、「頭が良い」状態を強く求めるようになってきた。


で、もともと思考力が備わっていたタイプだったので、特に頑張らなくても、小学校の半ばくらいまでは当たり前に、クラスで一番の優等生だった。

わがままで、目立ちたがりで、利発だった。


唯一、スポーツが苦手だった私は、そこで初めて「劣等感」を感じるようになったと思う。


学年が上がってくると、だんだんと、「努力」で色んな才能を発揮する子が出てきた。


私は、それまでは特に頑張らなくても、わりとまんべんなくできてしまうタイプだったので、「努力」とか「我慢」が非常にストレスで、ふんばりがきかなかった。

「苦しいのを我慢してまで、何かを出来るようにするなんて、やってらんない」とばかりに。

ウサギと亀の、ウサギが寝に入るところだ。


そうすると、勉強も私よりできる子が出てきたりして、母には猛烈に怒られ否定される。


しかも、私が良かれと思ってしたことが、相手には余計なお世話だったり、傲慢に映ったりしたようで、何となくクラスから浮きはじめる。

非常に上から目線ではあるが、この時は、「できない人の気持ち」が全く分からなかったのである。

それに、謎の正義感を振りかざしまくっていた。

友達がいなかったわけではないけど、どこか距離をとられ、浮いていた。



そんなこんなで無条件の自信が無くなってきた私は、高学年になると、自分の世界にこもりがちになり、オタクになった。


ちょうど、ハリーポッターが大ブームの頃で、魔法の世界への憧れが猛烈に復活したのもこの頃だ。
例に漏れず、私もドはまりした。


まぁ、傷ついた私の現実逃避には、もってこいであった。



この頃、私が思い込んだ恐怖は、

「人より目立ったり違ったり有能だと、嫌われる」


人と違う価値観を持っていたら、隠しながら、バレそうになったら否定しなければ、人と仲良くなれない。と思ってしまった。


ああ、何てもったいない。と、今なら思うし、隠せてるわけないじゃん。とも思うのですが。

まぁ、必要な流れでしたね。



そこから中学校に上がるまでは、オタクとしては楽しい期間を過ごした。


しかし、母親との関係性が猛烈に悪化して、毎日怒鳴られるわ、生まれてこなきゃよかったと言われるわで、家が安心の場所では無くなり、しんどくなってくる。









続きます。

望み、気持ちを伝える時のスタンス

誰がどんなことをどんな風に話そうが、私には知ったこっちゃないが、

コミュニケーションに疲れている誰かに、コツを授けたいと思う。




まず、あなたはその望みを相手に伝えるときに、

【相手をコントロールしようという気持ちの強さ】

を、自覚するといいだろう。



「あなたのため」とかを連呼するやつに限って、
これを自覚していない。

そもそもが、相手を自分の都合のいいように動かしたいからこそ、人は"コミュニケーション"するのに。
(今後コミュニケーションの在り方そのものが変わっていくかもしれないが、今のところは)




「月がきれいですね」だって、
一見、共感を誘うだけのロマンティックな言葉だけど、見方を変えれば「そうですね」という共感、その反応を誘うための、ひとつの計算されたアクションだ。



人間はどうあがいたって利己的にならざるを得ないのである。
問題は、利己的な性質そのものではない。


問題は、
【自分のアクションに対しての相手の反応に、どれだけ執着しているか】
という部分。


執着しているぶん、コミュニケーションが重くなり、辛くなる。


じゃあ、執着しなければいいのか!!
となるし、まぁその通りだが、

今 執着している人は、やめよう!と思っても簡単にはやめられないと思われる。



ひとつ掘り下げていこう。



じゃ、なぜ執着するのか。してしまうのか。


それは、あなたの根底に、

【存在が受け入れられ、愛されている】

という実感、安心感、静かな自信がないからである。

常に、

【愛されていない】

恐怖感を根底に抱えながら、人と向き合ってしまっているからである。



だからこそ、
相手が自分の言い分に沿わないような態度をとると、
猛烈に不安になるのである。

「受け入れられていない!愛されていない!」と。

自らの言い分と自らの存在を、何故か直結してしまうのである。


だから、必死こいて相手をコントロールして、
言い分を強制的に受け入れさせることによって、

「ああ、受け入れてもらえた。愛されてる」

と思いたいのである。






相手にも気分や好みというものがある。
それによって、相手も行動を選択をしているのである。


あなたという人間そのものを受け入れていたとしても、あなたの言い分に何でもかんでも同意するかと言ったら、また別であろう。



【受け入れられている安心感】

がしっかり根付いている人は、そこをしっかり分離して考えられるのである。

考えが否定されたりするより、そりゃあ受け入れてもらえるほうが、誰でも嬉しいが、

しかし、そこにこだわりすぎないのである。



「あ、あなたはそう思うんだね~私とは違うけど~」

と、とってもサラッとしている。

自然と相手のことを尊重することができる。






というわけで、コミュニケーションが重たく、苦しいものになるときは、相手に問題があるのではなく。


あなたが

【受け入れられ、愛されている】

という実感を得ていないところに問題があるのである。




では、その実感をどう得るかというのは、また改めて書きたいと思う。

「自分の感覚がすべて。」の考察。


「自分の感覚が全て。」

ってどういうことかというと。その証明?をしていきたいと思います。



ここからは、かなりひねくれた論理になってきますので、気が向いたかただけ、どうぞ。(笑)



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たとえば、私に、何の疑う余地もなく「仲よし♪」と思っているお友だちがいたとします。


一緒にいる時間も長く、会えば、何をするでもなくお互いに楽しい気分になっちゃう。そんなお友だち。



でも!
そのお友だちが実は超絶ウソが上手で、人を騙すことが生き甲斐で、私と仲のいい雰囲気で過ごしている演技をしているだけだったとしたら。心のなかでは、しね!とか思ってたりしたら。

実は仲良しではなかった、ということになりますよね。


あはは、そんなわけない、と思いますか?

では、そんなわけない、「本当に仲よし」ということを証明できますか?

誰が聞いても、どこから検証しても間違いないという、絶対的な真実として、真理として、証明できるでしょうか?


いったん感情や常識を排除した、とてもシビアな頭で考えると、その証明は不可能だということがわかると思います。


逆に、「仲よしではない」ということも、同じように、絶対的な真実として証明できるすべはありません。



とすると、この場合。

「私とあなたは、お互い強い繋がりを感じあっている。お互いが一緒にいると心地がよい。」

と、あなたが疑う余地なく感じているその感覚そのものが、ある。ただそれだけ。ということです。



どっちにしろ、目に見えるこの世の全てのことを、「これが真実である」とまるっと証明できるすべはないのです。


究極を言ってしまえば、今世界で真理とされていることすら、「今のところ、この世界観のなかでは、たまたま真理に見えるだけ」で、真理を真理と外側から証明することは不可能なのです。

ひとつの世界観のなかで再帰的な証明が繰り返されるだけなので。




ああ、デカルトみたいになっております。
というか、デカルトはそういうことを言っているのだと思います。

「我思う。ゆえに我あり。」

有名ですね。

そしてこの言葉の私的解釈は、

「絶対的な真理を求め続けたけど、結局気付いたことは、私自身が感知することがすべてであるということだった。それ以外のものを、真理と証明するすべはない。」

こういうことです。


そこで、ああ、なんてむなしい事実なんだ。と感じるか、
そもそも、この事実を受け止められるアタマがないか、
それとも、ああ、そうか!じゃあ、あれこれ難しいことを考えるのは止めて、自分がいい!ここちよい!と感じさえすればいいや!と ある意味開き直るかは、
本当にその人次第ですが。


私は、どっちにしろ今 中村テラとして生き、色々な出来事を通して色々な感情を味わっていることは間違いないので、それならば、せっかくならば、私にとっての「快」を追求しちゃおう。



そんなふうに"思って"いるわけです。



ちゃんちゃん。

テラサーガ Ⅰ

みなさん、こんにちは。

今日は私の長い長い物語をきいてくれますか?


初めましての方も、すでにわたしを知る方も、そうかそうかと、きいていただけたら幸いです。


なぜ、今なのかというと。
私自身が「わたし」を語ることによって、過去の私自身が癒え、そしてこれを読む誰かを癒すかもしれないと、感じるからです。



今、私は平和で、満たされた気持ちでいます。


そんな自分が嬉しいと思ったときに、ふと、自分の「幸せになる」旅の決意は、あの時だったと、思い出しました。

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私が中学二年生の時に、それまで一緒に暮らしていたおばあちゃんが亡くなった。
本当に優しいおばあちゃんで、当時はいるのが当たり前であまり自覚していなかったけど、大好きでした。


おばあちゃんは肺癌で、見つかったときにはもう移転が進んでいたらしかった。

当時は詳しい状況を把握していなかったけど、すでに死を待つだけというような状況であったと思う。

ホスピスに入った。症状はとても苦しそうだった。


そして、ある日 危篤状態と病院からの連絡が入り、家族や親戚で駆けつけた。


「意識はまだあるので、声をかけてあげてください。」とお医者さんが言うと、それぞれが泣いたり感極まりながら、色んなことをおばあちゃんに話しかけはじめた。


何故か私はその様子を、とても冷めた気持ちで見ていた。
そして、だんだん、怒りがわいてきた。猛烈な怒り。

極めつけは、私の叔母が、ずっと、「ごめんね、ごめんね」と泣きながら、懺悔のようにひたすら謝り続けているのを見ていたときだ。

私は、瞬間、衝動的にその叔母や他の親戚を押し退け、「ありがとう。絶対に幸せになるからね。」とだけ、ちからいっぱい、伝えた。




なぜ、あの時あんなに激しく怒ったのか。
当時はそれを言語化する能力がなかったけど、今なら分かる。



あの時おばあちゃんに声をかけていた人たちの言葉はほとんど、あの時あーすればよかったこーすればよかったっていう、後悔からくるものだった。

しかも、心の奥底に留めてためまくった、かなりねっちょりして重たいやつ。

それを、人の死に直面するという極限の状態にかこつけて、オエオエしてるかんじ。



私は、それを見て、

そんなきたない言葉で、私の大好きなおばあちゃんの、神聖な最後を汚すな!!!!いのちへの冒涜だ!!!!!!

と、猛烈に怒った。ごめんと思うようなこと、はじめからするな!!!と。

振り返ると、あの時の自分の怒りがよく分かる。

でも、同時に今なら、当時 絶対的に許せなかった彼らの言動の奥の弱さや苦しさも、分かるし、寄り添える。


むしろ、おばあちゃんは、自分の死をもってして、彼らの後悔を洗いざらい受け止めてくれたんだなぁと。
そうでもしなかったら、彼らの心の奥底のどろどろは、吐き出されなかっただろうから。




何て深い愛なんだろう。


おばあちゃん、今、私は胸を張って幸せだと言えます。

生前、私と母の猛烈な不仲のせいで、たくさん心配をかけましたね。
私と母以外にも、家族同士の猛烈な喧嘩が絶えず、平和的なおばあちゃんには、とてもしんどかったでしょう。


でも、そんな中でも、いつも守ってくれて、かばってくれてありがとう。


わたしの、穏やかで包み込むような愛は、きっとおばあちゃんゆずりでしょう。




やっと、この世界に溢れる愛に気づけたよ。ありがとう。


これから、きっと、もっと素敵な世界が広がっていくとおもうので、おばあちゃんも楽しみにしていてね。






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振り返るままに書きはじめたら、どんどんと色んなことを感じて、気づいてしまった。

気付いたら、涙が溢れました。

泣きながらひとつ物語を書き終えました。


そして今、またひとつ私の心が癒えました。



私にも、おばあちゃんにも、そしてこれを読んでくださったあなたにも、ありがとう。

たまこと岡田&田中みっち濃密セミナー・子宮委員長はる出版パーティ 感想総括

タイトル、長すぎた。



そしてまた本文も長編大作になりそうな、予感です。(笑)






まず、「憧れのあの人に会いたい~!しかも近距離で!!」という、我ながら(←お気に入り便利ことば)ピュア❤な衝動から、参加を決めた今回のイベント。



セミナーと名が付いていると、何かかっちりとした、おべんきょうするぞ!!な場のイメージがありましたが、私にとっては、大人の遠足❤というかんじの、たのしぃ~~く遊んだだけの二日間でした。



豪華メンバーと、ファンシーな場所で遊べたので、今の私にとっては大金の参加費でしたが、とにかく大満足です。
お金を使う遊びの楽しさに浸りました(*^-^*)



もちろん、人間の私は、「お金ないよ!どうすんの!?」と、たびたび喚いておりますが、みっちさんの、

「大丈夫、しなないから!」

という御言葉や、この二日間 肌で感じた「なんだって大丈夫、なんとかなる」感から、自然と「死ぬこと以外はかすり傷♪」と思えるようになりました。

この、「死ぬこと以外はかすり傷♪」はどこかで見たどなたかの言葉の受け売りですが、勇気の出る、素敵な言葉ですね。

(色んな方の発信をめぐりすぎて、どなたがどんなことを仰ったのか、ごちゃまぜ)



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自分を生きる!と決め、自分の深いところと とことん向き合うってこと。
瞬間瞬間の自分の本心や感情をごまかさずまっすぐ捉え、本望を叶え続ける勇気。

そしてその積み重ねで、自分が満たされ、満ち足りたものが溢れ、循環していく。



この循環の輪が、ごまかしのない自分である瞬間の「コツコツ」した積み重ねで、今の大きな循環になった。



それを目の前で目立つ形で見せてくれているのが、はるちゃんや岡田さんやみっちさんやHappyちゃんや心屋さんや、今大活躍されている皆さんなわけで。


そんなすごーーい皆さんも、間違いなく、あーでもないこーでもないと、探りながらも自分にとっての目の前の「快」を愚直に取りに行き続け、今の形になっている。

今の私と同じように、もがいたり、しくじったりしながら前進していた頃がある。



そして、だんだんその「コツコツ」のおかげで自分が幸せに生きる「コツ」を掴んでいったのだと思う。流れに乗るのが上手になったのだと思う。



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そりゃ、海こわいとか言ってたような人間が、いきなりかっこいいプロサーファーにはなれないよなぁ~
でも練習すれば誰でも波乗れるんだ!


そういうことを、場に赴き、スーパースターと場を共有し、声を交わしたら、なんだかとってもすとんとハラに落ちました。
残念なのか、安心なのか、よく分からない感覚です。(笑)


そして、キラキラのスーパースターも、私と同じように、
楽しいものにはしゃぎ、きれいなものに喜び、美味しいことに喜び、好きな人がそばにいることに安心し、と。
とっても「同じ人間なんだなぁ」と、思ったのです。

ぶっとんでるとか、宇宙人とかいうの、え?どこが?ってかんじです。

素敵な、優しい、人間でした。



ていうか今回はっきりとおもったけれど。

どんな人間でも、それぞれの好みの形はあれど、結局同じような感覚を好んでいる。もう、プログラムされてる。

美しさ。楽しさ。繋がり感。安心感。

こういうものを体感したくて、求めて、生きてる。


で、ここが人類の共通項なのだとしたら、みーーーーんなが、一人一人が、この欲求に素直に生きたら、ちょーーーーーーー楽しくて、美しくて、平和で、っていう世界になっちゃうわけで。

この予感というか予言というか確信だけで、胸いっぱいでございます。


あはは、楽しみ~~(*´∇`*)(*´∇`*)(*´∇`*)












総括第一段、おしまい❤

私的メモ 好き棚卸し編

◆病気レベル

真理の追及 (のための知覚できる最大の世界の観察 調査 考察)
体感や気付きの言語化 体系化 統合
思考実験


◆快、きゅん、わくわく、どきどき、楽、面白、安心、美など

宇宙
物理学

水辺 特に海や河など流れのあるところ
太陽光で煌めく水面
天気雨
水にたゆたう

テラス席
見渡せる席
窓際
木漏れ日
お花(視覚と嗅覚を気持ちよくさせてくれる)
特に花弁の多い花
大気のにおいをかぐ
強風

人と話す
他人の視点価値観を開示してもらい観察し、深いところに触れる感覚
物知りな人
字の上手な人
飄々とした人

色白で巨乳の子

衣食住にまつわる美と快の探求
お洋服
キッチン 食卓まわりのもの
インテリア エクステリア
をみて回ったり、買ったり、妄想したり

冷たいデザート チョコレートと甘酸っぱい果物 salad 桃 グァバ うどん おやき 茄子 エスニック全般 スープ あんず飴 野菜の冷製スープ 焼き鳥

知性 品性 面白味 コントラスト 酒脱さ 身体の形の美しさ をあらわす装い
美味しさ 味わい 有り難さ 香り 季節感 をあらわす食卓
快適さ 自然な贅沢感(空間や素材) 飽きの来ないさっぱりとした演出装飾 採光 少しの遊び 都会的要素と田舎的要素のバランスが良い立地 に重きを置く住まい

タイル 石

動物のモフモフのおしり
哺乳類 両生類

図鑑 図録(visualの一覧 標本がだいじ)

視覚的な刺激 満足感(pinterestみたいな)

ファンシーなランジェリー
bralet
totally lase lingerie
ひらひらしたスカート

ミニチュア 小さいもの

男性のスーツ フォーマル(軍装含む)
肩から胸にかけての張り感
座ったときのスラックスと革靴間の絶対領域
肘を曲げたときの15mm覗くシャツと手首の絶対領域
刈り上げた襟足
横分けスタイルside part hair styles
雄っぽいステータスと親和性の高いもの(車・腕時計)


FUNK SOUL GOSPEL などなど
重低音
melowなかんじ sweep感
リズムに乗る
Bigband レビュー

フォークロア
ブルーグラス
アイリッシュ ケルティック
アフリカン

チロリアンテープ

アメリカのおもちゃっぽい色
アメリカのホームコメディの雰囲気

ハート型(亜種ではなく原種)

シール
便箋

耽美・唯美主義、デカダン的世界観

大きいショッピングモール・倉庫
天井が高いところ

プレゼント探し

ASMR
女の子が小声で話し合うこしょこしょ音

クリスマスからお正月にかけて


◆固有名詞

Marilyn Monroe
Amber Heard
Natalie Portman
宮沢りえ
黒田エイミ
Katy Perry(歌もだけど何よりキャラクター)
Lana Del Rey
オノヨーコ

島田順子
石岡瑛子

柳宗理
寺山修司

クリムト

Crazy Ken Band
Pizzicato Five
宇多田ヒカル
荒井/松任谷由実


ジブリ(宮崎駿鈴木敏夫コンビ)

NHK
ユーフラテス

王様のブランチ、アド街ック天国的なお出かけ番組

東京ディズニーリゾート

JELLOのcherry味など赤系
植田のあんこ玉
みはしの白玉クリームあんみつ






◆得意

ニュートラル寄り目線







……随時更新予定

こじらせ系なりきり遊びの有用性を考える

女の子と二人で遊ぶと、オスになってしまう。


かっこつけたいし、自分のしたことで可愛い子が喜んでくれたらゾクゾクするし、とにかくイケメンとして振る舞いたくなっちゃうのである。


潜在的な性的欲求?をこじらせてるのかと思いつつ、ついついイケメンごっこをしてしまうし、不思議な満足感を得ているのである。


一緒にいてくれる女の子は、そんなごっこ遊びに憐れみから付き合ってくれているのかもしれないけど(笑)



とりあえず、このイケメンモードの精神状態で、肉体もオスだったら面白そうだなぁと妄想したりする。


ただ、バイと言うにはお気軽すぎる「女の子好き」なので、勘違いのレベルかもしれない。


理想のイケメンを自ら演じて、同時に相手の女の子に自分を投影して、オス的にもメス的にも同時に性欲を満たすみたいな。


それか、私は何事も、特に人間について・性というものについて「理解したい」欲求が強いので、絶対的に違いのあるオスを、その在り方を模倣することで理解しようとしてるのかもしれないし。


我ながら高度な遊びだと思う。


※よい子はマネしないでね。



そして、私の小さな世界の、私の独断と偏見(この言葉を使う度に思うが、この世の全てが各々の独断と偏見でできていると思う)ではあるが、こんな遊びをしているがゆえに、「女の子がよろこぶポイント」がわかる方であるという自負がある。

(私に近しい女の子、わかってねーよって思ってたらごめんね。)





◆なので、本日はここから、全てのモテ難民の男性へ贈るプチモテレッスンです。お楽しみください。





たびたび、魅力的な男性の条件として挙げられる「包容力」。

これ、とても肝要な部分だと私も思います。


しかしそもそも、「包容力」ってなんだよ。なにを包めばいいんだよ。ってお話ですが。



これは言い方を変えると、「好きな人、愛する人がよろこぶ姿が何より嬉しいと感じられる力」ってことだと思います。

そう思える力が強ければ強いほど、相手のありのままを受け入れることができるし、相手のためにできることは何でもしたいと考えるようになるし。


そして、メスはオスにそれを求めている。
そして、それができる成熟したオスを受け入れ、よろこぶ姿を見せる。これがメスのお仕事。
そうすると益々オスは頑張れちゃう。

こうなると、どちらもハッピーです。(*^_^*)



で、これ、一見聖人君子とかフェミニストのようですが、たぶん、全てのオスのDNAに刻まれてるレベルでのかなり健全で自然な状態であると思います。


「メスがよろこぶ姿が嬉しい」

「自分の存在価値をメスを通して感じることで生きるよろこびを得る」


非常に根元的な部分のよろこびと直結してます。



うわぁ~~~~自分で書いてて面白い。



で、こんなことを女である私が書くと、自分の都合のいいように書きやがって!と思う方もあるかもしれませんが。いや、もちろんその通りですが。



モテないと嘆く男性諸君は、女好きである自分を素直に認め、そんな女がよろこぶことが己のよろこびであることを素直に認め、とっととその事実に屈服し諦めた方がいいですよ。

変なところにプライド立てても、女からは敬遠される一方でございますから。


正しいプライドは「メスをよろこばせられるオスであるオレ」という部分です。

これは全ての土台です。
この土台がしっかりしていればいるほどモテるでしょう(*^_^*)


あ、ちなみに具体的にどんなことをすると女性がよろこぶかは、相手とコミュニケーションを密にとらなければわかりません。
女の数だけ、「よろこびポイント」がありますので。

その部分はプライドとか独断と偏見を一度捨てて挑まないと、モテという果実は実りません。



でも、全ての出発点である「包容力」。それがある男性を嫌いな女性はいない、というのも事実であると思います。










ああ、またうっかり、素晴らしい記事を書いてしまった。

モテについての考察は楽しいので止められない。

差異があるから認識できる。


一人で外で食事とかしていると、どうしてもまわりのひとの会話など、人間模様に意識がいってしまうのですが。



そういう時って、非常に多くのことを感じたり気づくきっかけになります。




今日は。
あるお店で、なんだかとってもイケてないメンズ(※ここでは略してイケメンということにします。)が同僚かと思われる女性と連れだっておりまして。


お顔は決して不細工ではないようなのに、なぜか隣にいるわたくしがムカつくほどに、イケメンだったのです。

あの、「ボクちゃん色々分かるしすごいんだけどね、賢いからね、ひけらかさないんでしゅ~」みたいな、見え見えのあっっっさはかな謙遜とも呼べないセンスのない卑下で、糞みたいな自慢話を延々と女性に語っているのがこちらまでダダ漏れでして。

あ、お口がすべりました。すみません。


びっくりしました。
日頃そういう人が近しいところにいないお陰で、「こんな腐ったオンナみたいな男がこの世にはいるんだ!」「本当にいるんだ!」と。
若干のカルチャーショックでした。




と共に、改めて、自分は本当に人に恵まれているなぁと感じ入った次第です。

むしろ、こういう気分の悪い人がいるからこそ、素敵な人が際立つのだなぁ、と。
うまみを引き立ててくれているんだなぁと。

そういう意味では、存在意義を感じました。



はい、自慢と悪口はハッキリ・軽やかに言うのが素敵だと思います。


と、言いながらこんな風に日記に愚痴っていたりもするけど、私はいいの。(笑)



そんなこんなで、センスのない男女がこの世から減ってくれたらいいなぁと思っております。センスの底上げを願います。




毒テラでした。